2005-03-26
■ [方言史][方言意識史]本居宣長『玉勝間』巻七「ゐなかにいにしへの雅言《ミヤビゴト》のゝこれる事」
すべてゐなかには、いにしへの言のゝこれること多し。殊にとほき國人のいふ言の中には、おもしろきことゞもぞまじれる。おのれとしごろ心をつけて、遠き國人の、とぶらひきたるには、必ず その國の詞をとひきゝもし、その人のいふ言をも、心とゞめてきゝもするを、なほ國々の詞共を、あまねく聞あつめなば、いかにおもしろきことおほからん。ちかきころ、肥後(の)國人のきたるが、いふことをきけば、世に[見える][聞える]などいふたぐひを、[見ゆる][聞ゆる]などぞいふなる。こは今の世にはたえて聞えぬ、雅《ミヤ》びたることばづかひなるを、其國にては、なべてかくいふにやとゝひければ、ひたぶるの賤《シヅ》山がつは皆、[見ゆる][きこゆる][さゆる][たゆる]、などやうにいふを、すこしことばをもつくろふほどの者は、多くは[見える][聞える]とやうにいふ也、とぞ語りける。そは中々今のよの俗《イヤシ》きいひざまなるを、なべて國々の人のいふから、そをよきことゝ心得たるなンめり。いづれの國にても、しづ山がつのいふ言は、よこなまりながらも、おほくむかしの言をいひつたへたるを、人しげくにぎはゝしき里などは、他《コト》國人も入まじり、都の人なども、ことにふれてきかよひなどするほどに、おのづからこゝかしこの詞をきゝならひては、おのれもことえりして、なまさかしき今やうにうつりやすくて、昔ざまにとほく、中々にいやしくなんなりもてゆくめる。
まことや同じひごの國の、又の人のいへる、かの國にて、[ひきがへる]といふ物を、[たんがく]といふなるは、古(ヘ)の[たにぐゝ]の訛《ヨコナマ》りなるべくおぼゆ、とかたりしは、まことに然なるべし。此たぐひのこと、國々になほ聞ることおほかるを、いまはふと思ひ出たることをいふ也。なほおもひいでむまゝに、又もいふべし、
これを引用している文献
日野資純『日本の方言学』pp.223-224「いやしくなんなりもてゆくめる」まで。筑摩全集による。
佐土原果「鹿児島(市)方言動詞の粗描」「近き頃肥後の国人の~などやうにいふ」