国語史資料の連関

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2009-01-15

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小学教育の事 二 (全集第四巻 福沢文集二編巻一)

 平仮名片仮名とを較べて市在民間の日用に孰《いづ》れか普通なりやと尋れば、平仮名なりと答へざるを得ず。男女の手紙片仮名を用ひず。手形証文受取書に之を用ひず。百人一首は固より草双紙其他民間の読本《よみほん》には全く字を用ひずして平仮名のみの者もあり、又在町の表通りを見ても、店の看板、提灯、行燈等の印にも、絶へて片仮名を用ひず。日本国中の立場居酒屋に、めし、にしめと障子に記したるはあれども、メシ、ニシメと記したるを見ず。今このめしの字は俗なるゆゑメシと改む可しなど国中に諭告するも、決して人力の及ぶ可き所に非ず。されば爰に小学の生徒ありて、入学の後一、二箇月を過ぎ、当人の病気か、親の病気か、又は家の世帯の差支を以て、廃学することあらん。其廃学のときに、是迄学び得たるものを調べて、片仮名を覚へたると平仮名を覚へたると孰れか生涯の利益たる可きや。平仮名なれば、極々低き所にてめしやの看板を見分る便《たよリ》にも為る可きことなれども、片仮名にては殆ど民間に其用なしと云ふも可なり。是等の便不便を考れば、小学の初学第一歩には平仮名の必要なること疑を容る可らざるなり。

 又片仮名にもせよ、平仮名にもせよ、いろは四十七文字を知れば、之を組合せて日用の便を達するのみならず、いろはの順序は一二三の順序の代りに用ひ、又は之に交へ用ること多し。譬へば大工が普請するとき、柱の順番を附るに、梁間《はりま》(家の幅なり)の方、三尺毎にいろはの印を付け、桁行《けたゆき》(家の長さ)の方、三尺毎に一二三を記し、いの三番、ろの八番など云ふて、普請の仕組も出来るものなり。大工のみに限らず、無尽講の鬮《くじ》、寄せ芝居の棧敷、下足番の木札等、皆この法を用るもの多し。学者の世界に甲乙丙丁の文字あれども、下足番などには決して通用す可からず。いろは用法、甚だ広くして大切なるものと云ふ可し。

 然るに不思議なるは王制維新以来、五十韻と云ふことを唱出して、学校の子供に入学の初より、先づ此五十韻を教へていろはを後にするものあり。元来五十韻は学問(サイヤンス)なり。いろはは智見(ノウレジ)なり。五十韻日本語活用する文法の基にして、いろはは唯言葉符牒のみ。此符牒をさへ心得れば、仮令ひむつかしき文法は知らずとも、日用の便利を達するに差支ヘはなかる可し。文法の学問、甚だ大切なりと雖ども、今日の貧民社会、先づ日用を便じて後の学問ならずや。五十韻を諳誦していろはを知らざる者は、下足番にも用ふ可らず。然るに生れて第一番の初学に五十韻とは、前後の勘弁なきものと云ふ可し。此事は七、八年前より余が喋々説弁する所なれども、嘗て之に頓着する者なし。近来は殆ど説弁にも草臥《くたびれ》たれども、尚これを忘るゝこと能はず。最後の一発として爰に之を記すのみ。

 書家の説に云く、楷書は字の骨にして草書は肉なり、先づ骨を作て後に肉を附るを順序とす、習字は真より草に入る可しとて、彼の小学校の掛図などに楷書を用ひたるも此趣意ならん。一応尤至極の説なれども、田舎の叔母より楷書手紙到来したることなし、干鰯《ホシカ》の仕切に楷書を見たることなし、世間日用の文書は悪筆にても骨なしにても草書ばかりを用るを如何せん。しかのみならず、大根の文字は俗なるゆゑ之に代るに蘿蔔《らふく》の字を用ひんと云ふ者あり。成程|細根大根《ほそねだいこん》を漢音に読み細根大根《さいこんだいこん》と云はゞ、句調も悪しく字面《じづら》もをかしくして、漢学先生の御意には叶ふまじと雖ども、八百屋の書付に蘿蔔一束価十有幾銭と書て、台所の阿三どんが正に之を了承するの日は、明治百年の後も尚覚束なし。此外にも俗字の苦情《コゴト》を云へば、逸見《へんみ》もいつみと読《よみ》、鍛治町《かぢちやう》も鍛冶町と改め てたんやちやうと読む歟。或は又同じ文字を別に読むことあり。こは其土地の風ならん。東京に三田《みた》あり、摂州に三田《さんだ》あり。兵庫の隣に神戸《かうべ》あれば、伊勢の旧城下に神戸《かんべ》あり。俗世界の習慣は迚も雅学先生の意に適す可らず。貧民は俗世界の子なり。先《まづ》骨なしの草書を覚へて廃学すれぽ夫れ切りと明《あき》らめ、都合よけれぽ後に揩書の骨法をも学び、文字俗字を先きにして雅言を後にし、先づ大根を知て後に蘿蔔に及ぶ可きなり。

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山田忠雄近代国語辞書の歩み』附説第三章「未完の辞書と稿本」の指摘