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2011-04-18

大矢透音圖及手習詞歌考』  第二章 阿女都千詞     第四節 阿女都千詞の行はれし時代 大矢透『音圖及手習詞歌考』  第二章 阿女都千詞     第四節 阿女都千詞の行はれし時代 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 大矢透『音圖及手習詞歌考』  第二章 阿女都千詞     第四節 阿女都千詞の行はれし時代 - 国語史資料の連関 大矢透『音圖及手習詞歌考』  第二章 阿女都千詞     第四節 阿女都千詞の行はれし時代 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント


阿女都千詞の行はれし時代はといふに、先づ、初めて此の名の見えたるは、宇都保物語なれば、其の書の年代を定めざる可らず。そは、黒川春村の墨水遺稿に、此の物語のことの、他書に見えたる限を擧げたる中に、左の二項あるにて、源氏物語の前、伊勢物語の後なること確かなり。

源氏物語合巻云、まづ物語のいできはじめのおやなるたけとりの翁、うつぽのとしかげをあはせてあらそふ。下略

塩尻卷廿云、空穂物語に、源順朝臣の作とかや。彼物語に、あかなくにまだきも月のなんどのたまひてといへば、伊勢物語の後の作なること明らけし云>

順の作れるなどはいかゞなれど、大略この頃のものなるべし。然るときは、殆ど口遊と同時のものにして、之を相摸集に見えたるをも考へ合はするときは、村上天皇天暦より、一條天皇の正暦前後の末つ方には、旁く世に行はれたることは、確かなりとす。然るに、此の頃は、既にアヤ二行のエの混用時代と、交錯の時期なれば、此の詞に既に明確に分別せられたる上は、此の詞は、必ず遠く天暦以上のものたるは、復爭ふ可らず。是に於いて、尚特に、口遊阿女都千保之曾と記せる文字について考ふるに、先づこゝに阿女都千保之曾と記して、保之曾良の良字の見えざるは、如何なる故にか。或は、書寫せるものゝ脱せるならんとも見ゆれど、さにはあらざるべし。何とならば、此の頃の習字本も、後代のいろはの手本と同じく、一行七字に書き習ひしかば人皆此の詞を指して阿女都千といふよりも、阿女都千保之曾と呼びしものならん。故に、其のまゝ、かく記しゝなるべし。然らずば、此處には、阿女都千などと名のみ記して有るべきなり。是より推して、阿女都千保之曾の文字も、昔より書き來れる此の詞の、最初の一行を示せるものと見て可なるべし。而して其の文字の、口遊作者の随意に記せるものに非ることは、口遊の中に記せる歌どもは、概ね、其の書に擧げられたる大爲爾歌文字を用ゐたるが、例へば。阿は総べて安を用ゐ、都は徒、千は多くは知を用ゐて、古來の例と異なる一癖ある眞假名のみ多く用ゐたること、下に擧げたる大爲爾歌を見て知るべし。然るに、作者自ら記せる、此の阿女都千保之曾とかける眞假名は、天暦以上の古経巻等の傍片假名の字原に、見慣れたる文字なれば、若し相ひ比較して、互ひに一致するところ多かるに於いては、アヤ二行エ音を分別せし時代に於いて、エ音分用の假名遣に適用せられし阿女都千詞字形を略,推測することを得べし。今試みに、寛平八年に、訓點を施したる石山寺所藏、蘇悉地翔羅経略疏の片假名の字原たる眞假名を、阿女都千の次第に排列して見るに、

  阿女 川千 保之 曾良 也萬 加八 見三 彌 太多 二

  久毛 木幾利 牟呂 已介 比止 伊奴 宇部 寸須恵

  由和 左流 於不世與 衣乃江乎 奈禮井天

の如くにして、口遊阿女都千保之曾と比較するに、川と都との異同のみにて、殆ど一致せりといふべし。されば、初の四言にして、かくの如くなるときは、推して全詞に及ぽすも、亦大異同なきを知るべし、尚、天安以上の訓點片假名字原も。亦皆大同小異なること、拙著假名史料假名字體沿革一覧を見ても知らるゝところにして、乃ち此の時代に於いては、恐くは、右の如き眞假名にて成れる一種の手習の詞ありて、一般に用ゐられたるは、殆と疑を容れず。既に之を以て然りとせば、其の詞は、此の阿女都千なりしならん。而も之を推して奈良朝に達し得べきや否については、暫く措き、唯多く片假名を以て、訓點を施せる時代以來、僧俗に拘らず、之を用ゐろこと、後代に於ける伊呂波歌の如くなりけんことは、其の詞に分別せられたるアヤ二行のエを混用せる順集、口遊、それより降りて相摸集時代までも、阿女都千といへば、誰知らぬものなきさまに見ゆるにても、如何に一般にも、久しくも、行はれたりしかを想ふべし。

抑も、眞假名の初めは、書により、時と人とにより、文字一定せざりしかど、萬葉の末つ方、家持集の頃のもの、又は正倉院御物中の書者を異にせる二通の尺蹟の眞假名の、略,一定せるところあるより推せぱ、此の時代、既に、阿女都千の行はれしやも亦知るべからず。果して然らんには阿女都千詞文字こそ萬葉時代に異なる所もあれ、奈良朝末より、天暦以上に最も盛に行はれ、天祿永觀以後、伊呂波歌の行はるゝまで世に知られたるものなるが如し。然るに、北邊随筆に、なには津、あさかやまのゝちは、あめつちほしそらといふことを、手習ふ人のはじめとしけるにやといへれど、こは、古今集の序に、なにはづあさかやまの二歌を手習のはじめにせしことをいへるより、然か考へたるなるべし。されど、この手習は、幼童の初めて文字を學ぴ初むるをいへるにはあらで、自己が詠める歌など、物に書きつくる事を習ふにて、源氏に、まだなにはづをだに、はかばかしうつゞけはべらざめればとある、つゞけといふ詞に注意せば、自ら覺らるべく、殊に右の歌は、二首合せても、四十八字の假名には、二十字も足らず。且其の缺けたる中には、重要なる假名多きにて、其の然ることを知るべきなり。されば、宇都保にも、先づあめつちとし、つぎになにはづ等に代ふべき男手、次に女手と次第して、手本を書きたるなり。但し、宇都保に、をとこでてにもなく、をんなでにむなく、あめつちとあるは、男手は、女子が常に用ゐる略草の連綿躰、即ち草假名女手に對して、男子の用ゐる正楷及び楷行體の文字を指していへるなり。而して阿女都千字體を以て、男手にも女手にもあらずとするときは、正楷や楷行體にもあらず、略草の連綿體にもあらざる其の中間の行體なりしと推定する外あるべからず。かく推定したる上に回顧すれば、天暦以上の傍に用ゐたる片假名中、行體の字原より抜き取れりと覺しきがいと多きも、亦之が傍證と爲すに足るべきなり。」以上の如く、觀來るときは、此の阿女都千詞は、中古以來、殆ど隠晦して世に知られざりしと雖ども、こは元來我が國、上古よりこの方用ゐ來りし眞假名字體一定せず。一音数十字の多きに至るが上に、極めて繁畫なるもの少からず。故に、民間教育を妨ぐること、最も、甚しきを致せり。然るに、奈良朝末期頃に於いて、作者は、知られざれど、此の詞の行はるゝに至りてより、平安朝初期、佛経授讀の事盛になるに随ひ、自然、片假名の發生進歩は勿論、女童に適する草假名の發達を促すべき基礎となれるものと謂ふべきなり。されぱ後代民間教育に大功ある伊呂波歌等の父祖を尋ね來らば、此の詞を措きて他に求むべからず。是に於てか、我が國文教育上暫くも、此の大功績者を没すべきに、あらざるなり。