2005-04-18
■ [辞典類]西田直養『筱舎漫筆』巻三「○類聚名義抄」
是善卿の類聚名義抄は、いにしとし姫路なる神谷氏を訪ひ、かの家にて写本十冊を見たり。奥書に仁治二年辛丑九月六日、釈蕉念、又建長三年八月六日沙弥顕慶とありて、末に観智院とあり。さるをこたびふと一本を得たれば、書舗木村にこのことをいふ。すなはち神谷氏にうつりしも彼店よりとぞ。奥を見しに、仁治建長の年号、神谷氏のごとし。これは嵯峨の法親王、古書をいたく好みたまふより、東寺寺中観智院の蔵書をとりいでさせたまひし時写せしと也。五六本写して江戸にもやり、その残りし本一部すなはち此度の一本なりとぞ。そも/\古語の書あまたあれど、かの新撰字鏡、和名抄の二部を以て第一とす。さるを此名家の抄にいたりては、又この二書の上にたつ。学者の座右におかでかなはぬものなり。〔割註〕字鏡は寛平四年僧昌住。抄は延長以下にいできしもの也。未v考。抄にさきだちて、本草倭名といふ書あり。世に埋れしを、〔割註〕深江輔仁の作。」丹波元簡上梓してよに出たり。さて此名義抄のことを、契冲、真淵、定長の先達のかゝれし書にたえてなきは、其頃はいまだかの観智院の庫中にかくれゐて、よにしる人なければなり。もしかの先達のしられましかば、字鏡、和名抄ともに、神典古籍の註釈に用ひらるべし。かゝる有用の書の、いたづらに櫃の底にうづもれゐたらむは、昭代の闕典とやいはまし。さるをいにし頃、かの法親王の、世にあらはさせ給し御事は、かへす/\もありがたくかたじけなきことなり。是善卿、黄泉より、いかに嬉しとやおもはれむ。かゝる古書をばよく/\校正して上木し、世上に刊布し、後世に伝へまほしきをや。おのれ浅学孤陋なりといへども、略古籍をうかヾふことをば得つ。いかで校正上木の一大挙をおこさむとおもふ。因にいふ。なまものしりの人は、類聚国史の撰書の部にも、文法実録、東官切韻、銀傍輸律集、韻律詩会分類集、家集等のことは出たれども、此書名なしと疑ふべけれど、類史には撰書にもれたることあまたあり。かの古事記、大同類聚方、古語拾遺をさへもらされたり。公然たる勅撰をだにもらされぬれば、此一書もれたりとて、何かはうたがふべき。仁和寺書目はなほさらなり。いまだ通覧もせざれば、よしあし論ずべきならねど、一臠の肉をくらひても、鼎中の味はしるためしなればとて、三四葉を見てかくうけばりて、古書なりといふもをこなるわざなれど、またいはざる事をえず。
随筆大成旧2-2,p69
■ [方言史]西田直養『筱舎漫筆』巻一「方言に古語ある」
小倉の俗に、細長く渡し舟などにする舟をひらたといふ。和名鈔船部に、〓〔舟帯〕、釈名云、艇薄而長者曰v〓〔舟帯〕。和名比良太、俗用2平田舟1云々。よくもかなひたり。又文字の神主の祭のをりにのるものをたこしといふ。和名抄、車部、腰輿和名太古之。また京都郡御所谷にては、皇居の跡をみやとこあとゝいへり。
随筆大成旧2-2,p29
■ [古代語]西田直養『筱舎漫筆』巻九「国風文章論」
日本紀 元正養老四年
詔詞
この七部なり、このなかより文藻をえり出すべし。
中古風
竹取 伊勢 土佐〔割註〕古今序、大井川行幸序、庚申夜奉歌序。」
下古風
宇津保〔割註〕此書竹取とひとしくふるきものながら、文体はふるからず。」より以下、源氏、狭衣にいたるまでの物語、日記、草紙をばすべていふ。さて右の三等にて、皇国風の文章は備はり、下古の文章は、さま/\の物語類をばむねとみずとも、只々源氏物語を見るべきなり。中古は三部ともにみるべし。さるをいま文章かゝむずる時は、下古の文法によるべけれど、中古風をよく腹にいれおかざれば、文章めゝしくて雄々しからず。その中古の中にも、いせ尤よし。さすれば伊勢、源氏の二部にて、文章は明らかなり。
随筆大成旧2-2,p200
■ [古代語]西田直養『筱舎漫筆』巻十「皇国文章」
皇国の文章といふもの、西土のごとくおのがこゝろざしをいひ、思ひをのぶる為につくりしものにあらず。むかしは神にまうす祝詞と、臣下に令す詔詞と、御世々々の事をしるす日次のふみとの三よりほかになし。あるは出雲風土記の国引の詞、また神寿、室寿のものにてほかになし。いまの和文とてかくは、古今の序。大井川行幸の序などを祖とすべし。この文章のこと別にいふべし。