2011-04-23
■ 山田孝雄『国語学史』第四章「漢和對譯の字書の發生」類聚名義抄
倭名類聚鈔を説けるにあたりて論及せざるべからざるは類聚名義抄なり。この書は俗説によれば、菅原是善の著といはる。若し果してその説の如くならば、倭名類聚鈔よりも古き時代の著といふべきに似たり。ここにこの書につきて一往考察すべき必要あり。
類聚名義抄は倭名類聚鈔と比するに、その性質と體裁とを異にせり。倭名鈔はその組織を類書の式により、漢語の説明を加へて倭名を注記せるがその倭名はすべて萬葉假名を用ゐたり。名義抄はその名義といふ語をは、空海の篆隸萬象名義にとりたるものならむとも思はるるが、それはその萬象名義の如く漢字を以て標出したる字書の體を具へて倭名鈔とは著しく性質を異にし、又國語を注記するには大抵片假名を用ゐたればその體も亦頗る異なるものなり。
さて倭名類聚鈔は上述の如く國語を注記するに萬業假名を用ゐしが、その質には一方に於いて草假名、片假名の發生既に略成熟せし頃なれば、かの古今和歌集の如く、歌集の假名書なるあり、又土佐日記、及び大井川行幸和歌の如く、国文を假名書にせるあり。かくの如くにして、和歌、国文の上に假名書の文章勃興して所謂中世文藝の盛時を現出したり。
かくの如き時代に在りては、かの漢文に射して施す訓讀の如きも、訓點の外に假名を添ふることとなり、又漢和對譯の字書の如きも國語を注するに假名を用ゐるに至るは自然の勢なるが、かく假名を用ゐて國語を注するは一はその簡便なるに基づくべく一は之により國語を明確に示すを得るが爲にもよる事ならむ。かく國語を假名にて注せる字書にして現存のものとして、最も古く考へらるるものは今いはむとする類聚名義抄の一類なりとす。
類聚名義抄は近世に傳はれるもの、東寺観智院本、西念寺本、蓮成院本、高山寺本の四種の名を傳ふ。これらは伴信友が、その原本若くは寫本を其の研究に使用せしものなれば、すべて今の世に存すべしと想像せらるれども、今吾人の見るを得るは観智院本及び、高山寺本、西念寺本の三種にすぎす。しかもその高山寺本はその零本の信友の影寫本を見るに止まり、その原本の所在はだ存否をも知るを得ざるものなり。西念寺本も亦原本の所在を知らずして、その傳寫本を知るのみ。この故にここには観智院本を主とし、傍高山寺本、西念寺本につきて述ぷべし。
観智院本は、全部を佛法僧の三帙に分ち、其の佛を上、中、下の本末、法を上、中、下僧を上、中、下とし別に篇目一巻を添へたればすべて十一巻あるものなるが、傳寫本には篇目を佛上の首に加へて一冊とし、十冊にせるものあり。この書の篇目はたとへばその佛上の巻を
人 行 〓久 仁ヒ 走 菱 一 十 身
の如きさまに次第したるものにして、その次第は説文、玉篇によれるものにあらず。かくの如き排列を爲せる前蹤は果してありや否やを未だ知らす。然るに篇目のはじめに叙ありて次の如くにいへり。
凡此書者爲2愚癡者1任v意抄也、不v可v爲v證矣 立v篇者源依2主篇1於次第取相似者置v隣也、於字數少者集爲雑部、依類者決也、篇中聚字者私所v爲也、印字雖v存人部1難v求入部1失字雖v在手部依v難v知爲2大部1等也、自餘字准可v知v乏
而して最後に雑部といふを設けて、上の分類に入らぬものを雑載せり。今この叙によれば、恐らくはこれらはこの編者自家の案によるものと思はれたり。
本書は漢字を字形の扁労によりて分類彙集し、之を上の如き篇目によりて次第したる字書なるが、その各篇の内部に於ける文字の排列には標準を立てゝ次第を正したりとは見えすず。さて各の字は楷書の體を以て標出し、これに音訓を加へたるものなるが、その音は漢字を用ゐ、反切を以て示したると假名にて示せるとあり。その訓は漢字を以てせるもまま見ゆれど、主として片假名を以て注記せり。而して新撰字鏡の如く漢字を以て義を注することなく、倭名鈔の如く漢語の出典を記すこともなげればそれらよりは遥かに多く日本化したるものといふべく、その體裁は明かに漢和對照の字書と名づくべきものなり。その音の假名にて示せるものには朱にて記したると墨にて記したるとありて、朱にて記したるは正音にして、墨にて記したるは和音なりといへり。又その訓には假名の傍に朱にて點をうちて、清濁及び、平上去の三聲を分ち示したるあり。而してその朱點あるものはいづれも證據あり、師説あるものにして、點なきものは雑々の書より見得するに随ひて注せりといへり。
以上は観智院本の概略なるが、この本の書寫年代を見るに、その巻十の末に奥書あり。曰く
書本云
仁治二年【辛丑】九月六日於賀茂(マ・)奄室交點畢凡此書者以作者自筆草本書寫之間文
字前後或重々定有紕繆歟清書之證本造必可交合之
釋子慈念【生年三十六歳云々】
本云
建長參年八月六日亥刻於洛陽城鷹司之邊一筆書寫之畢願以此結縁世々開恵
眼生々得惣持必證大菩提奥 執筆沙彌顯慶【春秋廿三歳】
これによれば、編者の自筆の草本といふものありしを仁治三年に慈念といふ僧の寫しおけるを後建長三年に顯慶といへる僧の更に轉寫したるものをば、後また何人かが之を複寫したるものと思はる。さればこの本は建長三年の顯慶の書寫の本にあらずしてそれの複寫したることは明かなり。然るに、この書を世に紹介したる伴信友が自己の複寫本の叙に
といひたるは如何なる理由なるか、了解に苦しむ所なりとす。而して見在の観智院本にはこの建長三年の顯慶の奥書の肩にかける「本云」の二字無く、信友の文化十年に書寫したる本にも無くて、文化七年の信友の複寫本その他の寫本に此の二字存す。かく「本云」の二字の存するは疑ふべきが如くなるが、今現存の原本を熟視すれば、「建長参年」の肩に當る所、縦六七・分横四五分許の部分紙うすく面荒れ汚れてありて何人かゞそこの所を擦り又は削り去りたる痕跡歴然たり。されば、ここに元來「本云」の二字ありしならむが、文化七年に信友が書寫せし後に、何人かがさかしらにその二字を消し去りしならむといふ岡田希雄氏の説當を得たりと思はる。とにかくに、この本は顯慶書寫の本にあらずして、それを更に、寫したる本、又はそれより再び轉寫せし本ならむが、いかに古くとも顯慶本の複寫たることは疑ふべからず。さればこの本は岡田氏の説の如く一先づ
と見なしおくべきものなりとす。かくてこの観智院本の實物につきて見るに、鎌倉中期頃の本と見るべきものたることは論なきことなれば、建長本の複寫なりといふとも、あまり下れる時代のものにはあらざるべきなり。この本は今、國寶となり、貴重圖書複製會に於いて、寫眞にとりて複製せり。
さて岡田希雄氏は他の二傳本、西念寺本及び、蓮成院本が、この観智院本より後のものなるべきことをを伴信友の記述等により推論せり。この推論は或は當を得たるならむか。西念寺本はその原本の所在を知らず、この本には今見る所の寫傳本が故生田耕一氏の藏に存せしを傳寫したるものを見るに、奥に
右十一册内七八九十之四册歓喜庵老師高田家宝令寓霧砲
右十一册内三四五六十一之七册西奪現住嚢諸方之髪之乞受方
傳寫之者也
警察
とあり。而して、その書寫の際に加へたるものと思はるゝ扉には表面に
明和四亥極月廿三日(右側)
類聚名義抄(中央)
と記し、その裏面に
此書全部±讐菅原是善(マ・β白ヒ多)濫作而我朝之古書叢窃鷹所墓篇松之
文蔚少年之鵜予傳寫之爲因西念寺寳藏之常住物者也
とあり。而してその書寫は明和四年のものと見られたり。かくて、その内容を検するに首尾共に内題無くして殘闕本たることを示せり。而して別に原本の表紙たりしものの爲とおぼしきもの一葉を上の扉の上に加ふ。それには左側に
三寳類聚名義抄佛上
と記して右側上部に「意」と記せり、 これは恐らくは原本の所藏者の書庫の整理上の記號ならむ。 かくこの現存本を観智院本に比較するに、先づ、篇目なく、本文の初の前に一葉の紙を加へ、その表面に七行の文ありて、先づ
凡例
と、題して、次四行にわたりて、本書の中の略字、異體の假名の説明と聲點の例(入聲則無有と注して之を缺く)を示し、次に二行にわたりて、
一人二イ三走四ヒ五衰六走七八1九十十身十一耳十二女
と書けり。これはこの「佛上」の巻の篇目を示せるなり。而して之を観智院本の篇に比ぶるに、それは佛上の篇目は「人」より「身十」に及ぶものにして、「耳十一」「女十二」は佛中の巻の初に存するなり。又高山寺本にありては「一人」より「十一耳」までは法傭人篇第一にありて、「十二女」は報佛女篇第二の初に存するものなり。かくの如くにして三本共に、その編次を少しく異にせるが、内容を見れば、この本は人部の初を缺き「循」字よりはじまり、女部は「媛」字までにして末を缺けるなり。かくの如くなれば、これは殘缺本たること著し。然るに、その奥書には上述の如く十一冊の完本たることを示せり。然らば、今の本は如何に解釋すべきなるか、將た又、今の本を基とせば、この奥書は如何に解釋せらるべきか。 信友が校本として用ゐたる本も同じきものにして他に完全なる本ありしにあらざるなり。この故に、上の奥書は頗る疑ふべき點あるものにして、或はこれは観智院本を書寫したることをいへるにあらざるかとも思はるれど、今之を明かにする途なし。 さてその西念寺は岡田希雄氏が、苦心調査の結果、越後國中頸城郡柿崎村なる異宗大谷派の末寺たることを明かにし、なほそれを書寫せしめし歓喜庵老師といふは西念寺の先住にして、後に越後國高田の添興寺を再興せし秀啓といふ老僧なること、及び、四冊は高田藩士に嘱し、七冊は西念寺の現住慧察がその友人に囑して書寫せしめたることを知り、その書が明治二十三四年頃本山よりの使僧に貸したるままになれりといふことを知るに至れり。(藝文、大正十二年九月十月號)されど、今はその所在を知らざるなり。
蓮成院本は殘缺三冊の本といふ。これはその一冊に三寶名義抄と題し、その巻首に蓮成院と記せるによりてかく名づくといふ。その蓮成院は興福寺の子院の名なるべしと信友いへり。この本は今だだ纔にその雑部の一冊のしかも新しき寫傳本の京都帝國大學の藏に存するを見るのみ。その本の事は岡田氏が藝文(昭和四年六七八九十月號)に詳説せり。
さて、上の蓮成院本も西念寺本も殘缺に止まり、書寫も新しくして信憑すべき價値に乏しく之を観智院本の十一冊完備するに比すべくもあらざるなり。然るに、その観智院本は完本なりといへども誤寫多くして、信頼の程度頗る低きものなることは余が自ら校訂して経験せる所なるが、この本の誤りを知らむには高山寺本を對照せざるべからざるなり。
高山寺本は三寳類字集といふ名を有するものにして、その本を弘化二年に伴信友がその子信近に寫さしめしもの巻上一二の二冊京都帝國大學に藏す。この本は寛政四年に柴野栗山等が幕府の命を奉じて古社寺の寳物を調査せし時、高山寺にて閲せし本のうちに
三寳類字集一部六帖
と記したる本の殘闕なりと考へらるゝが、その原本は今全く寺中に存せずして所在を知らす。はじめ信友は本書の蔵書目録を見て、寺僧に問ひしに逸して存せすときき、いたく嘆きしが、観智院本を寫したる後三十三年にしてはじめて見るを得たりといふことその寫本の末に載せたる叙文中にいへり。
この書寫本は叙に臨寫とあれば、影寫にあらざるぺけれど、その寫し方精細にして、かの観智院本に比して考ふるに、恐らくは原本の姿を忠實に傳へしものなるべく、その朱點は信友自ら寫したりといへり。而してこれはもと一帖なりしを書寫の便宜上二冊に分ちたる由なり。この本は序文凡例の如きものを載せすして巻首に
三寳類字集巻上
と題し、そのうちを更に一二と分ちたるが、その巻上一には
佛寳類字集巻上一
とし、巻上二には同じ趣にして「巻上二」とせり。而してこれその六帖中の第一帖と思しければ、原本は佛法僧の三部に次第して、
佛寳類字集巻上下
法寳類字集巻上下
僧寳類字集巻上下'
の六帖たりしものと見ゆ。さて又その佛寳類字集巻上の総目を巻首に載せたるが、それによれば、巻上をば更に
法佛入籍第一
報佛女篇第二
鷹佛肉篇第三
化佛本篇第四
の四篇に分ちセり。この第二字の「佛」は巻上の通学にしてその法報鷹化の四字は佛部の篇目を區分する爲に、佛字に熟する字をとりて加ヘたるものにして、佛字の下の人女肉木はその各部に於ける第一の篇目をとりて示せるものなるが、巻上はすべて四十篇「人」よりはじめて「黒」に至ること、及びその内の篇目の順序は観智院本におなじ。(但し観智院本には多少の誤寫あり、高山寺本にて正すべし。)而して観智院本には佛部を上中及下の本末の四巻に分てるが故に本書と似てはあれど、各巻に收めたる篇目の數は多少の異同ありて必ずしも一致せす。而して各篇の内部に於ける文字の順序及び音訓の注し方にも往々異なるものあり。かくの如く、書名及び、篇次、内容の上にも稍異なる所あれど、二書同一の源より出でしことは疑ふべからす。而して二書同一の源より出でしものとせばその間に如何なる關係あるかといふことも考ふべき問題なるが、余は先づ、その内容の説明の上にその差異の存する點より説かむと欲す。
倚 ヒヽム
の訓を見たり。その何の故なるかを知らず。かくて余は又
、〓二人 ヒソフクリ
とあるによりて「ヒ」は「与」(異體の假名「ヨ」に同じ)の誤爲なるを推定して「ヒヽム」は「与ヽム」「ヒソ」「ヨソ」なるべしと推定せしが、後高山寺本を見れば明カに「与ヽム」とかけり。かくの如く「与」といふ古體の假名を「ヒ」又は「ラ」とかけること観智院本に甚だ多し。又高山寺本に「オ」とかける仮名をば觀智院本には多くは「ヲ」と改めたり。かゝる事は其の書寫の時代に適應したる書き方をとれりといふべきが、ここに觀智院本に重大なる過誤あり。
偲 ヲヽ
とかけることこれなり。 余は「偲」に「ヲヽ」の訓ある理由又、その「ヲヽ」とは何の義を告ぐるかを知らむと欲して百方苦心せしかど、終に好結果を得す。空しく浩歎せしが、高山寺本には
思 七材反才
とあり。 即これ「才」といふ漢字にて「サイ」といふ音を注せしものなること著し。然るに、観智院本は片假名の「オ」を「ヲ」に改めたる際にこの「才」字の漢字なるを知らす片假名の「オ」と誤り認めて「ヲ」とせしものなること知られたり。かくの如きは最も極端なる例なるが、なほ他の例を少しくいはば、高山寺本に
「遑」の下に「ヽヽヽアク イトマ」
とあり。これは「イトマ」といふ訓と「イトマアク」といふ訓を並べかき、その「イトマ」の三字を再び書くべきを略して「ヽヽヽ」とせること明かなり。然るを観智院本には
遑 音皇 ミヤクイトマ
の如くかけり。而してその傍に「重點上ニツヽケタリ」とかけるは、原本を複寫せる時にこの重點を誤りて上につづけ書けりといふなるべきが、そをはじめて誤寫せし人はなほ意義をなししものならむに二三の傳寫を経ては「ヽヽヽアク」が「ミヤク」の如くよまるることとなり、その本注はもとより旁書までも意を爲さざるに至れるなり。(岡田希雄氏は二本を對照して示しながら「ミヤク」を不可解なりといはれたれど、上の如く不可解にあらす)又「ク」を「イ」に誤れるもの多く、それが、衡が「イヒキ」(クビキ)「」が「イヒアフ」(クヒアフ)となり、「カヤタキ」といふ≒鳥の名が「カヤイキ」となれるが如きあり。これらの事一一例をあぐるに堪へす。要するに、観智院本の誤字は高山寺本によりてはじめて明かにせらるる所甚だ多しとす。惟ふに観智院本のもとたる原本よりしてかかる誤あるべくもあらねば、その誤は建長本の書寫の時か若くは建長本より今の本に複寫する際の誤なるべきなり。
さて高山寺本にも亦誤寫なきにあ貯す。これらの誤はかつて岡田希雄氏の指摘せる所なるが、その誤は啻に筆寫の誤にあらずして多くは文字の位置の變動より起れるものと見えたり。たとへば十部「去」の下にあるべき「去來」の文字が、二行(十字分)隔て突兀としてあらはれ、「在」の下にあるべき「自在」「在々」が「去來」を隔てて存し、「平在」がそれより三行(十七字分)を隔ててあらはれ、しかも「平―」となりてあるなど頗る亂れてあるなり。 又「耳」の下「―」の次にあるべき「〓耳」が四社(十九字分)を隔ててかかれ、又女部にては「女」の次の熟字は「―婦」とありて「 メ」と訓し、「女」の熟字と見ゆる「少女」以下「女人」「潜女」「遊行女児」「醜―」「織女」「天探女」「歌女」は約七枚の後に置かれてあり。而してその「―婦」は一行を隔てたる「〓」の下にあるべきものなり。又一部に「五」の次「―者」の次に「向―」とあるは「向上」なること明かにして、次の「上」字の下にあるべきことは勿論なり。人部「人」の多くの熟字の次に「彷―」とあるは「彷彿」にして「佛」字の下にあるべきものなり。これらの事は如何に解釋すべきか。愚按ずるに、この高山寺本も亦ある本の傳寫本にして、その原本と一行の字詰を異にして寫したりしか、若くは原本の甚だ亂雜なりしを整理しつつうつしたる際に、錯誤を来したりしものなるべくして、これを以て観智院本の草本たりし證とする岡田氏の説には賛成しかぬるなり。
岡田氏は高山寺本先づ成り、観智院本後に成りし證として、上の如き點の外観智院本に訓の多き點をあげられたり。この點はしか考へらるべき可能性を有す。然れども、高山寺本に略頌ありて観智院本にその略頌を略したりとし著者が後に至りて必要を認めざるに至りしが爲に省きたるならむといはれしは事實と反す観智院本にはその略頌をば毎巻目録の次に載せてあるを以て略せりとはいふべからざるなり。もとより「爲頌」とかけるは佛上、「爲頌」とかけるは法上、の二巻に止まれりといへども、その目録の次の紙にかけるはまさしくその頌にしてすべてその四聲清濁を點にて示し、その音を假名にて示せるは頌としての唱へ方を教ふるものたるは明かなり。
要するに、三寳類字集と類聚名義抄との関係は現今までの研究資料にては同一源より出でたるものといふに止まりてそれ以上の説を立つるを得ざるなり。だだ、観智院本はよからぬ寫本にして、三賓類字集によりて是正すべき所極めて大なりといふにて止まむ。しかもその三實類字集が零本なることは惜みてもあまりありとす。
本書の著者は誰なるか。俗にこれを菅原是善卿の著なりといふ。その據とする所は蓋し上にいへる西念寺本の記載ならむか。伴信友はこれを信じて是善卿の撰と認めたり。然れどもかの書の記載は明和四年の記載と思ぼしく、しかも、如何にも學才の劣れるものゝ録する所と見ゆれば、この所傳は何等信憑すべき價値ありとも認められざれば、今は之は度外に置きて可なりとす。かくてその菅原是善卿の撰なりといふことは根據なきことなるのみならす、倭名鈔、新撰字鏡の以前の時代にかゝる假名書の字書の出づべき道理なきを以てその説信をおき難し。
本書は、もと多く世に知られざりしが、伴信友が、文化七年に観智院本を寫し、文政三年にその校本を成ししより頓に學界に知らるるに至れるものなるが、その以前は專ら信徒に用ゐられしが如し。鎌倉時代に成れる塵袋及び室町時代に成れるアイ嚢抄等皆之を引けり。それらには三寳字類抄、又は三寳名義抄といふ名にて引かれたり。又仙覚が萬葉集注釋巻七「阿倍橘」の注の裏書に「私云類聚名義抄云々」といひて、観智院本の佛下本四十七張左の「橙」の條の全文をひけること現本と一致す。
されば、この本の書寫せられたる頃は佛者の間に熟知せられ、また利用せられしものなるべし。
この故に本書の成れるは、鎌倉時代初期か若くはその前に存すべきものなるが、その古さは何時頃まで遡りうべきかを考へみむ。本書には倭名鈔を材料とせりと見ゆる所少からず。たとへば、「弦ユミハリ」及び「長庚ユフツヽ」の下に各
(中略)
草類
とし、「水雲モツク」の下に
藻類
とせるはいつれも倭名砂と一致せる所なり。又「鎚子此間云ツイシ」とあるは倭名鈔の「鎚子」の注に
此間音都以之
とあるにより、「悪銭此間云セニウチ」とあるも同様に倭名鈔の文をとりたること著し。又上に「薑」に「クレノハシカミ」と訓ありて、その下に「生―和名同上」とあるは倭名鈔をさせること著し。又「〓子和ヽミノ」とあるも倭名鈔をさせること著し。されど、「単皮《タヒ》」の下に「履類」(倭名鈔履韈類)とかき「胡黎キエムハ」の下に蟲豸類(倭名鈔蟲豸部)とかけるなどは倭名鈔と同じ語を用ゐす、又「鈴」の下に「僧房具」とかける如く全く倭名鈔に載せぬをもあげ(「僧房具」部門は倭名鈔にあれど「鈴」はあげず)たるあれど、大體に於いて倭名鈔の影響の存することは否定すべからす。かくて又本書に用ゐたる假名の體を見るに古體のもの少からす。その著しきものをあぐれば、
干(ウ)、 \(キ) 爪(ス) 〓(ツ) 〓〓(ホ) 〓(マ) 〓(ミ)
与(ヨ) 禾(ワ)
の如くなるが。そのうち「爪」を用ゐたるは比較的に新しく後一條天皇の御宇頃の物より見ゆればこの書もその頃より後なるべく思はる。又訓に
局 イトコカ(二) 盍 イトコソ(九)
とあり。この「イトコ」といふ語は、「イヅコ」の轉化せる語にして古きものにては承徳(堀河)の將門記の訓、又伊呂波字類抄に見えたるのみなれば、本書の成れるもその頃よりさまで古からざる時代大凡院政時代の初頃ならむか。小山田與清は本書につきて、その體裁延喜以前の書とは見えす、然れども堀河、鳥羽の御代より下れるものにはあらじといへるは當を得たる意見なり。又作者は之を誰と推定することは不可能なるべしと思はるゝが、岡田希雄氏は内容より推して眞言宗の僧侶の手に成れるならむといふ。蓋し或は然らむ。
終りに類聚名義抄の國語學上の價値をなほ少しくいはむに、この書は上述の如く、呉音、和音と標して當時通用の字音を記せること少からざるは注目すべきことなり。 又往々「東人云」と注して東國の方言をあげ
號 エス ヨハフ 東人云ワラフ
〓 ニコタ 東人云カノニケ
又鄙語と注して俗語をあげたる所など
孫 鄙語ヒコ
あり。又單語の音調を朱にて注記せるなど、國語史料としては種々の方面より観察せらるべき價値を有するものなるが、他面古語を研究するものにとりては一層
多くの資料を供給すと認めらる。按ふにこの書にあげたる訓は頗る多くして、し
かも、国典、漢籍、佛書にわたりて、ひろくそれらの訓読に用ゐたる語を集めたりと見ゆる點ありて古語の研究には非常なる利益を與ふる書、なりとす。ただ惜むべきは觀智院本が誤多くして之を正すに足るべき高山寺本の殘闕なることなり。されど、これらはその正しき類例より推して略その誤を正しうべからむと思はる。
(第四章おわり)