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2011-04-24

山田孝雄『国語学史』第四章「漢和對譯の字書の發生」新撰字鏡 山田孝雄『国語学史』第四章「漢和對譯の字書の發生」新撰字鏡 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 山田孝雄『国語学史』第四章「漢和對譯の字書の發生」新撰字鏡 - 国語史資料の連関 山田孝雄『国語学史』第四章「漢和對譯の字書の發生」新撰字鏡 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 篆隸萬象名義東宮切韻に次いであらはれたるは新撰字鏡なり。この書は僧昌住宇多天皇の寛平四年?に稿を起し、醍醐天皇の昌泰?年間に完成したる書にして、漢字を標出してその音義漢文にて注したるものにして、もとより漢字書たるものたり。然れども、往々國語萬葉假名にて注記せるによりて國語學者の貴重なる研究資料となれり。この書は主として僧徒の間に行はれ、永く俗間に知られすに在りしが如し。近世に至り村田春海京都本屋にて抄録本一冊を得てより學者の間に喧傳せられ、苟も國語を談ずるものは必ず見ざるべからざる書となりぬ。かくてはじめは寫して傳へられしが、享和三年丘岬俊平が之を出版し、後又群書類從の中に編入したりしより容易に見るを得るに至りぬ。この本はもと二巻なりしことは序文に明かなるによりて別にその完き本のありしことは誰も想像する所なりしが、その完本は容易に知られざりき。然るに文政年中京都鈴鹿連胤天治元年の古寫本の第二巻第四巻の二帖を得てより、十二巻の完本の世に存したるを知り、その他の巻々の所在を捜してありしが、安政三年に至りて撮津の西成郡北傳法村の岸田忠兵衛といふ人の同じ天治元年の寫本の他の十巻を藏せることを知るに至れり。この鈴鹿氏の分と岸田氏の分とは一部の書の分れたるものにて、もとは法隆寺一切経藏のものなりしことはその印にて明かなり。ここに於いて鈴鹿氏はその本を借り寫して、その所藏本の闕を補ひたりしを安政五年江戸黒川春村鈴鹿氏より借りて寫、翌年木村正辭氏亦之を寫して蔵したり。これより後學者またその十二巻を寫し傳へて坐右に備ふるを得るに至れり。さてその天治書寫原本明治十三年に至り、京都鈴鹿義鯨、撮津の北傳法村の井上徳右衛門二氏より帝室博物館に献納してはじめて十二巻再び相合して一となるに至りしものにして今現に博物館に尚蔵せられてあり。この十二巻本の出でてよりかの春海の得たりし本を見れば、それは和訓の有る部分のみを抄録したるものなりといふことを知るに至れり。その由は巻一天部より巻十二臨時雑要字部に至りて凡そ一百六十篇あり。これ序に片數壱佰陸拾といへるに合するに、略本には百七篇ありて、五十三篇少し。而してその臨時雑要字部はこの書の實用上最も必要なる部分なるに享和の版本には之を缺けるにてその略本なることを知るべし。しかも、その本文を對照するに異同あるにより、春海の得たる本の基は天治本とは異なる本なりしこと明かに考へらるるものにして、この天治本は又かのアイ嚢抄或は香藥鈔の裏書などに引ける本とは異なるものなるを知る。而してこの天治本も亦不完全なる點あれば、(巻六王部に十四字とありて、十二字のみ存し、又巻十一に數字部十六字と注して、一字をも掲げざる如きこれなり。)昌住原本のままとは認め難きものなり。されど、今日に在りてはこれ以上の本を得らるべくもあらぬなり。この天治本の複寫は爾来學者往々之をつくりしが、大部のものにして容易に得らるべきものにあらざりしが、文學博士大槻文彦氏その寫眞複製を企て、帝国學士院の補助を得て、大正五年に之を完成して世に公にせられたるが、之によりて從來の傳寫本を顧みれば、それらは皆原本の眞面目を傳へす、學術上の研究資料としてはいづれも不完全なるものなるを知るに至りぬ。余は大槻博士を助けて、その複製を監督し、なほ攷異と索引とを編纂してそれに附せり。

 この書の新撰字鏡といふ題目はもと支那に手鏡といふ名の字書ありしに基づきたりと見ゆ。手鏡の名は慧琳一切経音義に二所(巻十、什物の條、巻九十四抹額'の條)見え、又續一切経音義の序にも見えたり。昌住或はその書に則りてこれを編せしならむ。さて本書の序を見るに、昌住ははじめ二十五巻の一切経音義(玄應撰)を見て、別に音訓を注する書を編せむと企て諸書を渉猟して寛平四年に一旦草案を畢へ、三巻となし、新撰字鏡名づけしが、爾後なほ収集を怠らす、昌泰年中に、玉篇切韻を得、又小學篇の字、本草の文などを加へて十二巻に編せし由なり。その文字の数二萬九百三十餘字、その外小學篇文字四百餘字、連字部、重點宇部の字は之に加へすといへるが、臨時雑要部の字もその數の外にあり。而してその篇目の次第は多少は聯想によりて次第したるが如く見ゆる所もあれど、確たる一定の規律ありとは見えざるものなり。 新撰字鏡國語を注記したるものは抄録本と天治本とに於いて出入異同ありて必ずしも一致せざれども、天治本の方稍多し。その國語を注したる箇所は三千七百五十に近く、その國語の數は概算三千を超えたり。さてその資料となりたるものは如何なるものにてありしかと見るに、その序文の中に、

  亦於2字之中1或有2東倭音訓1是諸書私記之字也、或有2西漢音1是數疏字書之文也。

これによれば、その資料とせし書に本邦の語を注記せし私記名づけられたるもの少からざりしことを想像し得べし。而して、かの倭名類聚鈔の序にいへる辨色立成楊氏漢語抄日本紀私記の如きものも或は材料として用ゐられしならむかと思はるれど、断言し得べきにあらず。この新撰字鏡は種々の意義に於いて貴重せらるゝべきものなり。その一は、玉篇切韻小學篇などいふ支那の古字書の佚文を見るを得る點にして、二は本邦當時通用の字音支那原音とも異なり、今の通用音とも異なるものありしを證する點にして、三は本邦の古言を徴するを得る點なり。

 支那の古字書を徴するを得る點につきてはここに詳説すべき限りにあらぬが、(たとへば切韻文字は巻中に屡「以上出自切韻」とあるによりて見ることをうべきが如し。)そのうちに辨ずべき點あり。そは本書に載する小學篇といふ物のことなり。木村正辭博士は之につきて、

小學篇といふものは何時何人の撰なるか詳にしがたしといへども本書に載する所によりて考ふるにいと古きものにて皇國の造字のみを集めてを附したるものと見ゆ。

といへり。爾來、かくの如く信ぜられてありしが、和田英松氏はその小學篇といふは本邦の著にあらずして、隋書経籍志に、

  小鷺篇 一巻 晋下〓内史王義撰

とある書をさせるものとし、その書は顔氏家訓

  王義小學

とあると同書ならむと清人謝啓昆?の小學考?に論ぜるを是認し、玄應一切経音義小學篇小學章とあるも同じ書ならむといひ、なほ唐書の藝文志?にはその小學篇を晋王義之の著とし、わが日本國見在書目録にも、しか載せたるも王義の誤ならむといひ、その小學篇をば、昌住が引ける由を論せり。而してその小學篇に載する字のうちにて明かに漢字なるもの、たとへば、

  〓 波久へ良

  〓 蓮乃實也

等の支那の書に存する例をあげてこれを證せり。この説動くまじく思はるるが、本書の小學篇字と題する部は草、木、金、鳥、魚、蟲等の篇のみにして、しかも、字の下にはだだ國のみあげたれば、そはもと漢字書なりといふとも、その国訓は全く本邦人の加へしものたるや明かなり。思ふにこの小學篇果して支那字書ならば、それに何人か国訓を注し加へたること辨色立成の如くなりしものをば、昌住はその國のみをとりて掲げしものと解すべきに似たり。然るときはこの小學篇の標出文字は異體頗る多けれど、なほ支那傳來の文字にして木村博士の説の如き本邦の造字にはあらすとすべきなり。

 本書により本邦當時の字音支那原音と異なるものを徴證するを得る所少からざる由は上に述べたる如く序文中に「有東倭音訓」といへるにて知るべきが、その實例は

などと注記せるものにして、本邦の習俗音をさせるものと見ゆ。かかる音注はかの新譯華嚴経読日義私記にも既に

  除出音豆伊反

  散普天智反

  憺太牟反

  憐利反

の如く見えたれば、由来久しきものにして、本邦に於ける漢字音の變遷を考ふるものにとりては貴重なる材料なりとす。然れども、これらは國語學史にとりては第二の問題といふべくして、この書の國語學者にとりて貴きはその古言を徴しうべき點にあり。

 新撰字鏡は本来漢字書にして國語字書として編纂したるものにあらず。然れども注せる國語の數三千を超えたれば、わが國の古語を徴する史料としてその古きとその数量との上より見て貴重すべきものといふべし。然れどもその標出せる文字の見なれず、又假名遣の上に「ウルハシ」の「ハ」を「ワ」とかけるもの等

  備伸媛美麗之貌宇留和志

  謹太和己止(これは享和本の誤)

  穆和世阿和(これは享和本の誤)

あるを見て、本居宣長は(玉勝間十四巻)之を疑ひたれど、宇留和志といふは當時の通用語としては、この語に限りてかくいへりしものにして、その發音のままに記したるものなるべし。その故は、西大寺所蔵の金光明最勝王經に施したる白墨の點は弘仁、承和の頃に遠からざるものとせられてあるに、そのうち

  髪彩 于ルワシキ

  彩瑛 于ルワシク

などあるにて、この一語ははやくより「ウルワシ」とよまれてありきと考へらる。されば、これを以て本書を疑ふは、天暦以前には假名遣の誤れることなしといふ先入見にとらはれたる爲といふべく、又異體字の多く見ゆるは、本書が、當時の書籍より實際に帰納し得たる結果としてこれかへりて貴重すべきものにして、六朝以來異體字の盛んに行はれしことを思へば、何の疑はしき點もなきことをさとるべし。

 然れども本書はもとより國語を明かにせむを本來の目的とせしものにあらねば、吾人の研究に於いてはなほ傍系に属すといふべし。然れども、その小學篇の字、本草の木水草鳥の異名、臨時雑要字部の大部分はその文字和訓を與へたるのみのものなるが故に、それらの部分は漢和字書の性質を帯びたるものにして、之は國語を專らとする辭書の要求の漸く深くなりつゝありしことを語るものと考へらる。

国語学史 (1971年)

国語学史 (1971年)