国語史資料の連関

国語史グループにあったブログ

2005-01-30

[]〔北辺随筆[初編三]〕音の存亡 〔北辺随筆[初編三]〕音の存亡 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 〔北辺随筆[初編三]〕音の存亡 - 国語史資料の連関 〔北辺随筆[初編三]〕音の存亡 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

又云【○富士谷成章御杖父】、あがりての世には、人のこゑ五十ありけらし、そののちふたつは、やう/\うせて、あめつちの歌?のころは、四十八になりぬ。それが又、ひとつうせたる世に、いろはの歌はいできたり、いろはの歌、四十七のうちに、今はよつうせて、四十四のみぞある。かくのごとく、音のうせゆくにしたがひて、かんなづかひ?といふ事いできにけり。かんな?、女もじ?などは、いふかひなき女わらはべまでも、心えやすく、もちひやすからんが為に設たるを、今は、かんな?かく事だに、ならひあることのやうになりたるは、口にいふ所みだりがはしくなりて、かんなもじ?さだめたる世と、たがひたればなり。世うつりゆかば、四十四のうち、又ぞうせなむ。かくうせゆく事、こともじにはあらず。あ経、や経、わ経、【五十韻をば、亡父、経緯?といへり。】このみつの十五音のうちなり。今は、あ経はみな残り、や経には、いえうせて三音あり。わ経には、わのみのこりて、ゐうゑを皆うせたり。いろはの歌の時、や経のいうせて、ゐふたつになり、わ経のううせて、あ経のうひとつになり、や経のえ、うせて、あ経のえ、わ経のゑふたつになり、あはせて三もじうしなはれたるも、世すでにくだりたればなり。今はまた、いろは歌の、ゐゑをともにうせたるがゆゑに、かんなづかひ?といふ事いでき。さてのちは、口舌にわかちたる物なりといふ事をもしらぬやうになりて、かんな?をつかふ時に、さだむるもじ?のやうにおもへるがゆゑに、明魏は、さる歌くちの人におはしけれども、かんなづかひ?は、いるまじきよしいはれたるは、なげくべき事なり。たとへば、今いくよろづよをへて、やわあの三音、もじ?は、かはれども、こゑ?はうせてあとなり。をよの二字も、こゑうせたらん時も、明魏にしたがはヾ、いにしへをしたひ、ことをさだめむ人、なにゝよりてか言のこゝろをも、わきまへまし。ことの源をきはめずして、流にしたがひて末におもむく人は、明魏がひがごとをいひ出すべし。よくしらずばあるべからず。此みつをうしなへるのみならず、こゑ?軽重をうしなへる事多きによりて、いよ/\仮名づかひの事、しげくなれり。軽重とは、はひふへほの、わゐうゑをにまがふ事なり。【御杖云、「はひふへほ」を、「わゐうゑを」の如くいふは、いはゆる清濁音也。】これらさへ、いにしへは、さだかに口舌にわかちたるを、となへうしなひて後は、かんな?にてさだむることゝはなりにたり。いにしへ、神楽催馬楽などをうたふが如くに、こひは、子火と聞えて、こゐとはいはず、あふも、安婦ときこえて、おうとはきこえざるべし。これらのまどひなかりけるゆゑに、いにしへは、いふかひなきわらはべ、もじかゝぬ女などの、口にまかせてよみたる歌も、かんなのたがひたる事はなかりき。今はいうそくの人だに、かんなづかひをまねびきはめざれば、たがふ事のおほきは、口にならはずして、書にならふが故なり。枕草紙に、えぬたきといふ人の名あり。かゝる名の、今のよにありて名のりたらば、えは、いづれのえぞと、とひ聞て後ならでは、かんなにも、女もじにはかゝるまじきを、その比は、やすらかに口にきこえたれば、疑なかりしなり。今の世の人の衍に、治右衛門あり。次右衛門あり。京人はたヾ同じやうによぶ故に、したしからぬ人は、消息などにもさだめかねて、次郎の次をつきたる人に、治部の治をかき、治右衛門に次右衛門とかきたがへてやれども、その人も、こと人かなともあやしまず。みづから次治などさだめてかきたるを、みしりたる人、はじめて疑なくなる事、わづらはしくも、荒涼にもおぼゆるを、筑紫人は、よく口にわけて、治はちもじの濁れる、次はしもじの濁れるなりと、よく聞ゆるは、げに筑紫は、みかどのもとつ御国なるしるしなるべし。和名抄に、諸国の郡名、郷名などをかけるに、かんなづかひ?たがひたるあり、これはその国々の詞だみて、いひうしなへるをみせたるなり。今の人も、都の詞、ひなの詞かはれる故に、いふ所、みな和名抄の郷名のたぐひになれり。かんなづかひは、京極黄門?【○藤原定家】のさだめさせたまひて後、其沙汰まち/\にして、おぼつかなかりしを、ちかき世、契沖がよくいひわきまへたるにより、はじめてことさだまれゝど、いにしへより、理につきて、もじを定められし事とのみ心えられけるにや。口角にわかつべき事とはいへる人なし。千慮の一失といふべし。またあ経のお、わ経のををおきたがへ来れるを、わきまへたる人なし。今、紀伊、基肆のたぐひをもて、囎唹をおもひ、又、もじあまり反切のよしをおもひ、かつ催馬楽の譜などにも、をこそとのゝ列のもじを引声するに、乎々とはかゝずして、於々とのみかきたるにて、はじめてこれをさだむ。後の人よくみさだめよ。【御杖云、此「おを」の置所たがへる事も、また他家に同説ありとぞ、人の説をば、亡父かく書くべきやうなし。猶かのもじあまりの説なども、たヾものゝはしにかきつけ置て、今まで世にしめさヾりしかば、亡父が説とは、しれる人のなきなりけり。】木居を恋によせ、藍を逢によせたるは、もとより誤なれど、さすがに中古のひとの誤にて、いにしへのおもかげありて、よせたるこゐ、あゐ、みなゐなり。ゐは、かろく唇をうへの歯にあてゝいふ。ひの軽音?もヽいにしへは、今のやうにまたくいとは聞えずして、唇を歯にあてゝ重くいひたるべければ、ゐをひにかよはせたるは、今の人のみだりがはしきには、いたくたがひて、しかるべき事なり。さればよゝの先達も、もちひられたり。これならずとも、ゐをひにはおしてもちふるも、心にくかるべし、といへり。

御杖因云、これらの説によりて、げに仮名づかひは、音をもてこそさだむべかりけれとさとりて、おのれわかゝりしより、経緯に心をいれて、おもひよれる事もあれど、こゝにはもらしつ。


(古事類苑 文学部 二 音韻 五十音図