国語史資料の連関

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2005-04-17

[]松井簡治冨山房辞書出版13:31 松井簡治「冨山房と辞書出版」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 松井簡治「冨山房と辞書出版」 - 国語史資料の連関 松井簡治「冨山房と辞書出版」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 冨山房も創立以来こゝに五十年を経過した。一口に五十年といふか、それは人間一人の一生に相當する年月である。そこには眼まぐるしい社會事情の變轉があり、おぴたゞしい経済界の變動があり、科學の躍進があり、文化の進展があつた。勿論書肆冨山房としてもその社運には時に起伏があり、幾多の災厄にも直面した。然し一難を経る毎に益々猛進し發展して遂に今日の隆盛を見るに至つたことは寔に慶賀の至に堪へない。

 冨山房が常に有益な出版物を世に送ることは既に定評があるが、その中でも最も偉大な功績は辭書類であらう。芳賀博士?・下田博士?の「日本家庭百科事彙」、吉田博士の「大日本地名辭書?」、自分と上田博士との「大日本國語辭典」、佛教大學?編纂の「佛教大辭彙?」、樋口慶千代上田博士共著の「近松語彙」、大槻博士の「大言海」、「国民百科大辭典?」等々これである。世人が冨山房を目して出版界の富士山だといふのも溢美の言ではあるまい。

國語語典」が明治四十四年神保町の火災の際、窓から火が飛込んだにも拘らず偶然にも原稿が窓の直下に置かれてあつたので焼失を免れ、大正十二年の大震火災の折には紙型の大部分が牛込?の秀英舎?にあつたので又災厄を免れたのは奇蹟であり天佑であるが一方には冨山房の隆々たる社運の賜であつたかも知れぬ。

 「地名辭書」の著者吉田博士と或宴會の席で會談したことがあつたか、其時博士は「僕に地名辭書の訂正を奨める人があるが、僕は元来餘り旅行をした事がない。地名辭書は机の上で編纂した辭書だ。それだから人間業としてはあれ以上には出来ない」といはれた。「人間業としてはあれ以上には出来ない」とは、何と面白い自信の強い言葉であらうかと感服した。それを聞いた時、自分も二十年六千日、一日三十三語を目標としてあの「國語辭典」を編纂したものだ、我々普通の人間ではこれが極度かも知れんと幾分か衿持心も起つた事があつた。吉田博士は旅行はあまりされなかつたか、私の郷里である下総の銚子が大好きで時々行かれた。それで晩年にも此地に遊ばれたが、遂に病に冒されて銚子で逝去されたのである。現に此地の清水臺の高地には記念の碑が建てられてゐる。

 芳賀博土と自分とは少壮の時から特別の交際であり、公私共に相往来する機が多かつたが、博士が渡米の析、自分のためにウエブスターの舊宅を訪ね(其當時既に他人の所有となつてゐた)「君にはよい土産だと思つてわざ%\撮つて来た」といつて其家の寫眞を贈つて呉れた。友情の厚い事は今尚深く感謝して居る。

 「大言海」の大槻博士は、生前私の顔を見ると「君と一夕辭書編纂の苦心談をゆつくりして見たい。この苦心は辭書編纂の経験のない者には解らない。君の國語辭典の語句の出典は感服だ。僕は語源を主にしたいと思つて居る」といはれたが、種々の支障で十分に苦心談を交はす機會を得なかつた事は今でも非常に遺憾に思つて居る。

 吉田博士の「地名辭書」も、芳賀博士?の「家庭百科事彙」も、大槻博士の「大言海」も、自分等の「國語辭典」も皆同一書肆冨山房から出版された事は何等かの因縁かも知れない。

 此度冨山房の創業五十年祝賀に際し、是等三博士が存命であつたならばと思ふと、喜びの情を禁ずる能はざる一方、無量の感慨に堪へない思があるのである。

matuikanji_huzanbo.pdf