2009-02-09
■ [漢語]山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第五章 漢語の形態の觀察 0
漢語はもと古代の支那語たることは明かなれど、現代の支那語とは頗る異なるさまを呈するものにして、ことにわが國語に入れるものにありては一層甚しとす。今吾人の目的とするものは國語に入れる漢語なれば、この點に於いて現代の支那語の研究とは別なる方途をとるべきことはいふまでもなし。
現今吾人が漢語と目するものは漢字を以て唯一の目標とするものにして漢字を離れては殆どこれを考ふるを得ざる程になり、漢語を問題にするには先づその字如何を問ふを常とするさまなり。而してこの状態は近世のみならずして、古代より然りしものならむ。即ち當初はじめて漢語を口より耳に受けし時は知らず、漢籍佛書に親みてより後は、これらより受け入れたる智識が、やがて日用漢語の源となりしことは疑ふべからず。或は遣唐使留學生など、直接に漢語を知りし人もありしならむといへども、それは極めて少數の人の事にして大多數の國民は文字よりこれを得しこと疑なし。而して平安朝の中頃遣唐使やみて、直接に支那人に接する機會の稀なるにつれて、ます/\書籍文章よりして傳へらるゝもの多くなりて、こゝに漢字と漢語とは離るゝこと能はざる關係をなし、その漢語がわが國に於いて獨自の展開をなすにつれてはます/\漢字を以て唯一の資源とするに至れるものなり。この故に、われらのこの研究はさる事情に基づいてその研究の主たる封象をばその漢字によりてあらはされたる漢語とすること明かにして、それに該當する漢字の知られぬものゝ如きは果して漢語なりや否や疑ふべきものなりといひても不可なき状態にあり。而して、この漢字の用は更に進んで、漢語以外の外國語をもこれをしるすに漢字を用ゐるを常とするに至り、かくて漢語ならぬものにして、往々その宛て用ゐらるゝ漢字の爲に漢語たるが如くに誤り認められ易し。たとへば、
塔 (梵) 袈裟(梵) 鉢 (梵) 和尚(梵)
の如きはその文字の形と音とよりして漢語なる如く認められ易きなり。これはもとより、その文字をその意味に近きものにとり、同時に原語の音に近きものを用ゐたるが爲なりとす。かくの如くなれば、わが國にありては漢字を用ゐてあらはされたるものが悉く漢語なりといふを得ず。隨ひて漢字の研究は即ち漢語の研究なりといふを得ざる状態に在り。然れども漢字を離れては殆ど漢語を研究し得ざる状態にあるも事實なり。或は又その最も國語に熟化したるものは、漢字をからずして用ゐらるゝものも多少は存すべし。たとへば、
哀なることはその常なき世のさがにこそは - (源氏、柏木)
の「さが」といふ語は從來種々の説明あれど、いづれも肯綮にあたれるを見ず。これは恐らくは「世相」のことにして「相」の古音「サガ」(「相模」の例を見よ)をば國語に化せしめしものならむ。又
いとくまなきみ心のさがにておしはかりたまふにやあらん。 (源氏、椎本)
の「さが」といふ語はこれも從來種々の説明あれど、いづれも肯綮にあたれるを見ず。これは「心性」のことにしてこれも「性」の古音「サガ」をば國語に化せしめしものならむ。しかもこれらは古來漢字にてかゝぬを常とせり。かくの如くなれば、漢字にてかかずしてしかも漢語なるものも多少存すべきは想像に堪へたり。然れども、これらとてもこれを漢語なりと説明する時には某々の字に當るといはぬ時には決して人をして首肯せしめ難かるべきなり。こゝに於いて、吾人のこの研究は漢字を全く離れては施すこと能はざること明かなりといふべし。
かくて吾人のこの漢語の形態上の觀察は必然的に漢字の研究と密接の關係ありといふべし。こゝに少しく漢字につきて概説する所あるべし。
漢字はその文字としての性質よりいへば、所謂義字たるものなり。所謂義字とはその言語の意義をあらはすを主義として、音を直接にあらはすを主義とせざるものをいふ。然るに、上にあげたる。外國語の音譯としての
襦袢 袈裟
の如きはその字形のうちに意義をあらはす部分(衣扁)もあれど、その主要部分は音をあらはすにあり。然れば、かくの如きは純然たる義字にあらずともいふべし。然れどもこれなほ義字たる本質を失はず。更に
牡丹 蘇枋 獨逸 巴里
の如きはその文字いづれも音をあらはすのみなり。かくの如くにして漢字は音字としての用をもなすに至れり。佛經の陀羅尼、わが記、紀、萬葉集の歌などには全く音字として用ゐたるも存す。漢字はかく音字として用ゐらるゝものもあれど、その本體は義字たることは否定すべからず。
漢字の説明としては古來所謂六書の説あり。六書の名目は書によりて一定せずといへども、そのさす所は略一定せり。普通にいふ所は説文解字の序に説く所にして
の六をいふ。これは漢字の組織とその用法との展開によりて立てたる名目なり。指事と象形とは一切の漢字の源とする所にして、この二者並びて生じたるものと思はる。指事は最も單純なるものもあれど、又象形によりて生じたる文字の上に指事を成したるものを見るが故に、象形を先づ説くべし。
一、象形とは事物の形體を象《カタド》りて表示したるものにして、後世、字體の變化につれて、その象形の原形の認められざるやうになれるものも少からねど、源を尋ぬれば、いづれも、繪畫に似たるものに歸するなり。
日月山木艸竹魚鳥車口目耳
等の文字の源これなり。
二、指事とは事物につきて形象以上の概念を表示するに用ゐたるものにして
一二三上下
の如きはじめよりの指事と、
本 未 末 旦
以上の二は漢字の源にして、文字の「文」といふ語に該當するものといはる。而して一切の漢字、その源に溯れば、この二者に歸せざるものなしといへども、その數は少くして十分に用を果すべからず。こゝに於いて、それらの原文字を合せて、その用をなすこと起る。その合字の方式に會意と形聲の二種あり。かくして生じたるものを「文」に對して「字」といふ。文字どはこの二者を合していふなり。
三、會意とは既成の文字を二、三合せて形の上に於いて一體とし、同時にその原字の意義を會合して新たに意義を生ずるものなり。これには
炎 赫 林 門(戸ヲ左右相對セシメタル形) 〓 森 晶 轟
の如く、同字を合せたるもの、
古(十口) 信(人言) 位(人立) 晴(日青) 盲(亡目) 看(手目)
の如く異字を合せたるものあり。さてこの會意の字にてあらはされたるものは、もと語ありて字無かりしものが、その義によりて會意をなして新に字を生ぜしめしものならむ。
形聲又諧聲といふ。これは既成の兩字を合せて形體上一として新に一義をなす點は會意に似たれども、その原字の内、一はその意義をあらはす部分となり、一はその音をあらはす部分となるものにして、音と義との二者の合一して成りたる字なり。たとへば、
可工主者白同毎甬
(木) 柯杠柱楮柏桐梅桶
(水) 河江注渚泊洞海涌
(言) 訶訌註諸 〓誨誦
(竹) 〓 〓箸〓筒 笛
(人) 何征住 伯恫侮俑
の如し。
曾これらは語あり、音ありて、字のみ無かりしものをば、かくして新に字を生ぜしめしものならむ。
さて象形、指事、會意の文字はそれ/゛\自家固有の音を有するものなれど、この種の字にありてはその音は從來の字によりて示し、たゞ意義の上に於いて、又形の上に於いて發展せしことを示すものなりとす。
以上の四は漢字の字形上の發展を示したるものと見らるべきが、通常文字といふはこれらをさすものなりといふべく、この四者によりて漢字の字形上の發展は略、進歩を止めたるものにして、次下は上の四法によりて生じたる文字の用法上の展開に屬す。
五、轉注は古來その解釋區々にして一定せず。今普通にいふ所をとるに、これは原字の本義を引伸展轉して他の近似せる意に流用するをいふ。
樂
ガク
(音樂)(音樂は人を好ましむ故)
(快樂)(とす。これには音をも轉ずるものあり)
惡
アク
(善惡)(惡は人のにくむもの故に)
ヲ
(好惡)(とす。これも亦音を轉ず)
令
(號令)(轉じて號令する人とす)
(縣令)(これは音を變ぜず)
長
(長幼)(轉じて人の長とす)
行
行(歩)(庚韻、ゆく)
(歌)行 (庚韻)
行(列)(陽韻、行列)
(輩)行 (漾韻、次第)
(徳)行 (敬韻、おこなひ),
これらはその字をそのまゝに用ゐて意義を轉化せしめる為のならむ。
六、假借は文字の本義に拘らす、その音を借りて、他の意に用ゐる。
豆 (爼豆)(豆子《ツス》、器物の名。 その音を借りて)
(豆菽)(植物のマメとす)
耳 (耳目)(假借して)
(耳) へ助字とす)
諸 (之乎の二字のかはりとす)
盍 (何不の二字のかはりとす)
これらは語あり音ありて、字無かりしものにあてしが起源ならむ。
この假借は、上の類の外、外國語の音譯に多く用ゐる。 か丶る時にはこれが、音譯なる由を明かにしておく爲に口偏を加へて示すことあり。
喇叭 (刺八は音譯) 咖啡(加非は音譯) 〓咭唎(後には口偏を除きて英吉利とす)
かくの如きは、上にいへる形聲と頗る似たる點あり。されど、形聲は各字それぞれ特有の意義あるに、これらの文字は皆たゞ、音のみにして義字にあらねば、性質を異にするものなり。
一切の漢字はその構成上より見れば、以上六書の範圍を出です。而して。その最後の假借は義字の性質を脱して音字の域に到れるが如しといへども、しかもそれ
が漢語をあらはす限りに於いてはなほ義字たることを失はす。たとへば.
豆
の如きは今は植物の(マメ」の義と固着して離れす、それが俎豆の豆の象形なることはかへりて忘れられてあるが如く、又「而」(ナンヂ)「諸」「盍」の如きはそれ/゛\助字としての義をそれらに固定せしめて考ふることあるはいふまでも無し。されば、これらも亦歸する所は義字たりといふべし。
さてその漢字の數を見るに、明の字彙に載する所、三萬三干五百二十五字といひ、康煕字典に載する所四萬六千二百十六宇といふ。今、康熈字典の字數を支那の字書の型に比すれば、その型四百二十に對して、一の音の型に屬する文字平均百十字となる。これをわが國語化したる發音法によれば、一の音に屬する文字は一層多くなりて平均百五十五字となる。かくの如く同音の文字の多きは如何なる理由なるかといふに蓋し、その音は同じくして、意義の異なるものは、これを音にては到底區別しうべからざれば、文字の形にて區別する外に方法なかりしが爲ならむ。
而して、これは上述の形聲及び假借の文字の發達を促したる原因にして、同時にこれは又漢字が義字たる本質の基づく所なりとす。されば、支那語が、その單綴語、孤立語なる性質をかへざる限り、同音の語は何時如何なる場合にも多數にしてこれを文字にて區別してあらはさむとせば、必す義字とならざるべからざる運命にあり。近時、支那文字改良の聲盛んにして、音標文字を普及せむことに努力するもの少からざる如くなれども、支那語のこの根本性質の變化せざる限り、その運動は畢竟徒勞に歸すべきことは逆睹するに難しとせず。
漢字の性質大要上の如し。こ丶に當面の問題として、吾人の研究すべき方面は何處にあるかといふに、第一は漢字そのものに即しての問題にして第二は漢字そのものを用ゐて、漢語を組織することに關しての問題なり。
こ丶に先づ漢字に即しての問題如何を考ふるに、凡そ漢字につきては
形
音
義
の三方面の研究を必要とすべし。然れども、今問題とする所は字形には關係なきことなれば、これには觸れす、又字義は直接に今の問題に關係すること少きが故にこれも後の問題に委ね、こ丶には先づ、音を觀察し、次にその漢字にて構成せらる丶漢語の形態を觀察せむとす。