1187-03-06
■ 唐物語・石季倫
昔、石季倫といふ人ありけり。萬の寳に飽きて世の貧しき事を知らざりけり。金谷の園のうちに五百の舞姫を集めて悦び樂む事夜晝を別かす。このうちに緑珠と聞ゆる舞姫なむ、數多の中にも勝れたりければ、身に優りて淺からす思へりけり。かくて月日を送るに時のまつりごとを取れる人孫秀、この緑珠が類ひなき有様を聞く度に、ひとつてならざらむ事をねもごろに思へりけれ、堪へかねて色に出でぬ。石季倫身をはかなきになすとも心よわからじと思へるを、この人まけじ心のいちはやさにつはものを集め勢きはめて志をやぶる。この時緑珠は遥に高き樓の上に居たりけり。石季倫かの人の手に隨ひて、ゆくゆく目を見合せて、「誰ゆゑにかかくはなりぬる」といひけるに、堪へ忍ぶべき心ちせざりければ、樓の上より身を投げて死なむとするを、「身に優るものやはある」と諌むる人數多ありけれど、遂に聞かす。
「後れ居て歎かむよりな時のまに死なむいのちはをしからなくに【ぬかなイ】。いとかく思ひ取りけむ、心のありがたさも言ひ盡すべからず。
国文大観