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2012-04-04

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 そこでわたくしの心に浮び上っでくる場面は、父の診察室の一隅で、土間の上に板の橋を渡して薬室へ行けるようになっているところである。この橋を渡って薬室の一端を通り抜けると、客の泊っている座敷へ出る。だから多分春樹は、その座敷から、わたくしたちのいる室の方へ、出動して来ていたのであろう。わたくしは春樹と共にその板の橋のたもとに立っていた。その時にわたくしが何を話しかけたかまた春樹が何を言ったかはまるで覚えていないが、客をもてなすつもりで、何か遊びを提案したのであったような気がする。とにかくわたくしの言葉が、歯切れの悪い調子で、たどたどしく続いているうちに、春樹は突然歯切れのいい調子で啖呵を切って、わたくしの横っ面に平手で一発喰らわせた。そうして素早く身を翻えして、板の橋を渡って、座敷の方へ帰ってしまった。わたくしはただ茫然としてそのあとを見送っただけであった。

 この時から十年ほど後に、春樹は京都で母親を失った。そうしてその頃から染み込んだ京都弁が生涯抜けなかった。しかし母親が健在であった間は、少くとも自分の家の中では、土地の言葉に染まることをやかましく言われていたように思う。この叔母の亡くなる一二ヶ月前に、わたくしが初めて京都見物に行って数日泊めて貰った時には、まだそういう風であった。このやり方は叔母が若い時ほど激しかったであろうから、松江で二三年暮らしていても、五歳の春樹が歯切れのいい東京弁を使っていたことは、わたくしの記噫違いではあるまい。多分これが、わたくしの東京弁を聞いた最初の機会であったのであろう。尤も、単に東京弁というだけならば、春樹よりもむしろその母親の方が耳立った筈であるが、それは全然印象に残らず、ただ五歳の春樹の東京弁だけを覚えているのは、子供らしい印象の受け方だといってよい。

 東京弁が村の子にとって非常に珍らしかったという風なことは、今ではもう理解しにくいことであるかも知れない。ラディオを通じて東京弁らしいものが田舎の隅々に聞え始めてから、もう三十年にもなる。東京自体では純粋な東京弁がだんだん聞かれなくなってくるが、東京弁らしいものは全国に広まっている。それと同様に、流行唄でも、鞠つき唄でも少しく面白いものであれば、地域的制限を破って全国に広まることが出来る。耳に聞えるものについては、都会と田舎との相違がだんだん少くなって来たのである。近頃ではまたテレヴィジョンが非常な勢で田舎へ広まりつつあるから、眼で見るものについても、やがて同じようになってくるであろう。それを思うと、六十年前にわたくしたちの経験したあの甚だしい環境の相違は、もうこれから後には決して現われて来ることのない、あの時代の特殊な現象であったのかも知れない。今では恐らく、東洋西洋との間にも、あれほど甚だしい環境の相違は見られないであろう。

和辻哲郎『自叙伝の試み』「村の子」