2012-04-03
■ [近代語]東京弁の変化(和辻哲郎「自叙伝の試み」)
従兄の潔は何に刺戟されたのか、わたくしに「江戸ッ児を使って見せようか」と耳打ちして向うのベンチの方へ近づいて行ったのである。そこには下町のおかみさんらしい女の人が、天神への参詣をすませたらしく、腰かけて休んでいた。わたくしたちも並んで腰かけ、従兄はごく自然にそのおかみさんに話しかけた。多分天気のことか桜のことであったろうと思うが、話題ははっきりとは覚えていない。がとにかくそのおかみさんのきれいな江戸弁に対して、従兄があまり方言の癖も出さず、調子よく応対しているところを、この湯島天神の鏡内で見せてくれたわけなのである。
東京の下町を初めて見渡した時の印象と、この江戸弁のこととが、結びついて記憶に残っているのは、或は偶然のことではないかも知れない。あの頃にはまだ下町には江戸弁が鮮明に残っていた。そうしてそれが田舎者にとって何かあこがれの的のような意味を持っていた。勿論それはすべての田舎者にとって同様であったとは言えないかも知れぬ。郷里の方言に特別の愛着を持つ人、郷里のものには方言で話しかけないと情がうつらないと感ずる人、なども、決して少くはなかった。しかしわたくしたちはそれほど方言に対する愛着は持っていなかった。わざわざ「江戸ッ児を使って見せようが」などという位であるから、お互の間では郷里の方言で話していたに相違ないが、しかしそれは単なる惰性であって、方言を固守しようとする意識によるのではなかった。だから方言の癖は、強いて直そうと努力しなくても、おのずから少くなって行ったように思う。それと共に、何時の間にか郷里の方言を純粋にしゃべることも出来なくなってしまった。がそういう変化は、東京弁そのものにおいても認められる。わたくしなどと同年輩で、東京の下町で育って」かなり純粋な江戸弁を使っていた筈の人たちが、いつの間にかいろいろな地方弁に感染して、妙な言葉を使っているという場合も決して少くはない。東京弁全体がそういう風に変って来たし、また東京弁が地方へ浸潤すると共に、その地方からいろいろな訛りが逆輸入せられるという関係もあって、変化は一層促進せられているように見える。だから、東京の「町の姿」が震災と戦災との二度の破壊によって変ってしまったと同じ程度の変り方は、東京の「言葉」の上にも現われて来そうである。言葉は建物と違って地震や火災から直接の影響を受ける筈はないのであるが、しかしあの二度の災害は、東京の住民の住所を著しく変えたであろうし、住民の移動はその土地の言葉の変化として現われずにはいないのである。
この東京弁の変化と同じようなことは、大阪弁、京都弁、その他各地方の方言においても起っているのかも知れない。特にラジオの普及後には、放送に使われている言葉使いが、各地方に強い影響を及ぼしているであろう。それと共に、各地方に出現した工業都市が、著しい住民の移動によって、その地方の方言に強い影響を与えているであろう。それほどに変化しても、方言そのものは中々消滅しないかも知れぬが、しかしこれまで半世紀の間の変化の様子から推測すると、これからの半世紀の間には、方言の差がよほど少くなって行くであろうと思われる。そういう著しい言語の変化の時代に、非常に美しい話し方という風なものが、強い魅力を以て大衆の耳を捕えるということになれば、日本語の前途にとってはまことに幸福であろう。眼に訴える文章の達人は明治以来幾人か輩出した。耳に訴える話し方の達人が今は特に待望される。