国語史資料の連関

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2008-04-04

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昔は深見重左衛門貞国とか、荻生総右衛門茂卿とかいうごとく、俗称と通名の二つがあり、町人百姓にも通称と公儀名の二つがあったが、明治初年に戸籍法が改まって、本名一つを届け出させることになり、伊藤俊介が博文と称し、大隈八太郎が重信と改めるなど、太郎、吉祥、平蔵、衛門は卑俗なりとして、昔、諱《いみな》とか字《あざな》とか言ったような名乗りにすることが、当時の知識階級に行われたのである。ところがだんだん嵩《こう》じて、井上頼國と書いては人々が読みやすいとて國《くに》の字を圀の字に書き、小杉榲村とか久保田米〓というごとき普通の字でないものを名乗りにする者もあり、果ては康煕字典玉篇などから、人々の、読めない字を撰《よ》り出し、それを我が子の名に付けて、お父さんは学者であったらしいと、後の人にも評されようというつもりで、普通の字引にも活字にもない難字を用いることがはやり、それが明治三十年前後には最もはなはだしく行われた。

「アナタのお名前は何とよみますか」と訊かれて、「アキラといいます」とか「ユタカとよみます」とか答えて、本人までがチョット反身《そりみ》になるのもあり、近頃は恥入りの態度で時代錯誤の名を付けてくれた親を恨むような者もある。

 上記の読みにくい字の表は、最近の『職員録』中に見えた判任官の本名を抜記したのが多い。

宮武外骨『明治奇聞』