国語史資料の連関

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2004-05-01

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 明治二年頃、乱暴者の横浜地内に入るを、監視するために、横浜吉田橋脇に関門を設け、無鑑札の帯刀者は、関門地内に入るを許さざりし。しかるに、外国人経営の乗合馬車に乗り込みし帯刀者、往々そのまま入関する者ありしにぞ、左の欧文制札を関門脇に建て、これを禁上せり。

   (制札訳文) 注 意

  帯刀人は、横浜関門内へ、鑑札無くて入ることを許さゞれば、

  帯刀の日本人を乗せ来る馬車は、関門にて引留可v為v致事

   西暦千八百六十九年(明治二年)四月廿一日

                      神奈川県裁判所

 この制札は、明治四年十一月に撤廃せるが、それまでは、取り締まりを実行したりし。(横史)

 東京も、築地に居留地が開け、外客来往したれば、それ等外人のため、欧文の制札を建てること、明治初年に行はれし。二巳年十月版『繁華一覧』新大橋の図に、車留の欧文制札を書いてあるは、すなはちその一つなり。

 四年七月二十四日、東京府より市内組合の中年寄添年寄に触れ、「市中、橋々其外馬駕籠車止め之場所え、西洋横文字の札差出有之分、不v残取外し、明日中当府へ可2差出1事」とありて、坂部六右衛門外二名より、請書を取れり。これにて、市内の欧文車留等はなくなりしものと見える。前記『繁華一覧』は、この撤廃以前のものなるべし。

 十七年七月の『吾妻』に、一笑話を載す。『車夫の児有り。一日学校より帰り、学ぶ所の課程を復習す。時に西洋数学を石盤に速書し、問ふて曰く、老爺、読み得るや否と。車夫曰ふ、咄汝我を侮る勿れ、個は是れ車止と読む」。