国語史資料の連関

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2012-05-05

[]「日本人が昔から漢字漢文を學ぶに力を費したことが、學問的能力の發逹を妨げた、と考へるやうになつた」(津田左右吉「自叙伝」「日本人が昔から漢字や漢文を學ぶに力を費したことが、學問的能力の發逹を妨げた、と考へるやうになつた」([[津田左右吉「自叙伝」]]) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「日本人が昔から漢字や漢文を學ぶに力を費したことが、學問的能力の發逹を妨げた、と考へるやうになつた」([[津田左右吉「自叙伝」]]) - 国語史資料の連関 「日本人が昔から漢字や漢文を學ぶに力を費したことが、學問的能力の發逹を妨げた、と考へるやうになつた」([[津田左右吉「自叙伝」]]) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 かういふ學校で學んだのであるから、讀書力は養はれた。そのころの教科書は、いはゆる漢文書きくだし風のかたくるしい文章で書かれ、漢字が多く使つてあつたが、それを讀むことをむつかしいとは思はず、作文にもさういふ文體を用ゐた。漢文も讀んだが、そのうちでおもしろかつたのは『日本外史』であつて、これは、どれだけの時間がかゝつたか忘れたが、全部讀みとほしたらしい。わたくしの學校のたつた一人の訓導であつたモリ(森)先生といふのは、師範學校出身であつたけれども、もともと儒者としての修業をしたかたであつたことが、かうして漢文を學ぶには都合がよかつたのである。それにこの先生は、日本のこともよく知つてゐられたらしく、『日本外史』に出て來る人たちの傳記逸話や、その記事に關係のある詩や歌などをいろ/\教へて下され、時には人物の批評などもせられたので、この本を讀むことのおもしろみがそのために特に深かつたやうに、後からは考へられた。わたくしは學校の課業の外に、この先生について、いくらかの漢籍を學んでゐたから、漢文に親しみをもつてはゐたが、さういふことが無くても、『日本外史』はおもしろかつたらうと思ふ。

 かういふ風に漢文を讀むのは好きであつたが、漢文を作らうとはせず、さういふことを教へられもしなかつた。たしか「詩語碎金」といふ名であつたかと思ふが、詩に使ふことばを集めた本を、或る時、モリ先生がわたくしに下され、もう少したつたら詩を作ることを教へようといはれたことがあるが、その時が來ないうちにわたくしは學校を卒業してしまつた。たゞ、漢文でもなく詩ではもとよりないが、知つてゐる詩や漢文の句を用ゐたり幾らか作りかへたりして、上にいつたやうな文體作文のけいこをしたやうに思ふ。

 かういふことをおもしろがつてゐたのであるから、あたまの使ひかたがかたよつて、ほかの學課の妨げになつたのではないかと、思はれもするが、必ずしもさうではなかつたやうである。算術は好きであつたので、いろいろの例題を集めた本が家にあつたのをとり出して、ひとりでそれを練習したことが思ひ出される。またもし自然科學に關することを何ほどか學んだならば、それが好きになつてゐたらうかどうだらうかと思ふが、さういふ方面のことは、前にいつたやうに學校でさして教へられもしなかつたから、これについては、何ともいはれぬ。ただ、漢文を讀んだことが後になつて自然科學の學問のしかたを理解するじやまにならなかつたことだけは、たしかである。かういふことをいふのは、ずつと後になつて、日本人が昔から漢字漢文を學ぶに力を費したことが、學問的能力の發逹を妨げた、と考へるやうになつたからのことである。このことについてはいろ/\の點から考へねばならぬので、こゝではいはないことにする。ついでに思ひ出したから書きそへる。中學時代に友人たちと同人雑誌を作つたことがあるが、その時に「漢學の必要を論ず」といふことを書いたおぼえがある。これがわたくしの文章活字になつたそも/\の始めであるが、しかし實をいふと、小學校を卒業してからは、却つて漢文書物はあまり讀まないやうになつてゐた。

津田左右吉「自叙伝」明治十年代の田舍の小學校」『全集』24 pp.80-82