国語史資料の連関

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2012-06-01

芦田惠之助と姫路中学 芦田惠之助と姫路中学 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 芦田惠之助と姫路中学 - 国語史資料の連関 芦田惠之助と姫路中学 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 私が姫路中学勤務の三年間に関係したのは、一年生の二学期から三年の終りまで続いて担任した三組の国語漢文でした。その三組の中に、すべての学科に優秀な成績を示していた三人の少年を発見しました。それは黒坂達三君、和辻哲郎君、横山勇君でした。横山君は一年を終了すると共に、陸軍幼年学校に転じましたが、その後の消息を全く絶ってしまいました。黒坂君は中学を卒業すると共に東京に出て、外務省に勤務し、かたわら学業にはげんでいました。中学にいた頃よりも明朗になって、誰にも嘱望敬愛せられていました。それが外交官試験をうけて間もなく自殺してしまいました。モルヒネを多量に飲んで、何の苦しむ所もなく、眠るがごとく死んでいたということでした。死を選んだ黒坂君には、死を以て解決しなけれぽならぬ問題があったのでしょうけれども、君の死後を弔わねぽならぬ父母・骨肉・師友・同僚の上に思いいたって、死は選ぶべからざる道だったと思いました。芝の青松寺で、北野元峰老師によって追悼会が営まれた時、和辻君は学友を代表し、私は教師総代として弔辞を述べました。

 「黒坂君は、姫路の神屋に、あけくれ君の安否をきずかっていられる父母のあることを忘れた。今日の悲報を、老父母は何ときかれたことであろう。君は選ぶべからざる道を選んだ」と結びました。和辻君の弔辞の中にも、「黒坂君が遺書もなく、静かに死についたのは、まさに新傾向の自殺というべきだ」ということばがあったように記憶しています。

 昭和二十四年の秋でありましたか、ある朝何心なく新聞をみていると、横浜裁判の判決の中に、「絞首刑陸軍中将横山勇」とありました。私の目を、かわいい中学一年生横山勇君の姿がかすめました。早速近くの練馬に住んでいる和辻君に、「久濶平に/\。時に今朝の新聞を見たか。横浜裁判で絞首刑を言い渡された横山という中将は、中学一年で、君と同級だった、あの勇君ではありませんか。久しく音信を絶して、この訃音に接しても、何処をどうたずねて弔慰すべきかの道も立ちません。せめて君と横山君の往事を語って、共に慰めたい。お忙がしかろうが、半時間御面接下さいませんか」と申しいれました。すると早速返事があって、「自分から訪うべきですが、何日午前十一時御来駕をお待ち申し上げます」とあって、道順の図を詳しく書いて、教えてくれました。当日を待ちかねて、時刻を少し早めに出けました。御馳走になったり、肚一ぱいの昔語りをしたりして帰ったのが、十六時でもありましたろうか。秀才の中でも、終りを完うする人は少ないものです。横山君が終身刑減刑せられたとこの頃の新聞に見えていました。

 私が姫路にいた三年間の得物の中、最も大なるものは、足立謙三君と国文法を研究したことでした。足立君は、明治三十五年の夏、東京国語教育講習会に出席して、文章法文学史の講話をきいて来ました。余程面白かったとみえて、自ら進んで、私に伝講してくれました。足立君は自分の取扱う読本の文を分解し、私は私の取扱う読本の文を分解して互に研究を進めました。したがって教授の準備と研究とが並行しましたから、興味も深いし、永くもつゞきました。私が文の形式面について、多少の自信を持ったのは、これがためでした。私が垣内先生を知り、先生の研究にあこがれを持つようになったのも、足立君のこの伝講からでした。今も文の解剖をしたり、国民思想の動きを文学上に考えたりすると、いつも足立君のことを想い起します。君は後年釜山商業学校の教師として、かの地につとめていました。私が総督府に転じて後、往復の途次に訪問しましたが、朝鮮を去って後は、全く消息を絶ってしまいました。

 私がさきに京都府教育会に作文秋教授方案の論文を提出してから、単級学校の准教員としても、国学院の学生としても、当時姫路中学の助教論としても、作文を私の生命として、自ら綴ることを楽しみ、児童・学生の成績物を読むことを楽しみました。国学院の学生時代に、「禁庭様」と書くべきところを、「今帝様」と宛字を書いて、稲垣先生に笑われたことがありました。姫路中学では、私の在職中に、学校騒動が二度ありました。それを学生の作品から、二度とも事前に感知していたのは、私でした。今も文章作品中に、その人の生命をつかみ、その動向を察するのは、私の最も楽しみとする所です。因みに、私は懸賞文に興味を持っていました。姫路中学在職中にも、金港堂文芸界が、児童読物を募集しました。私は「試験休み」と題して、尋常四年の児童生活を取扱ったものを応募しました。それが一等に当選して、七十五円の賞金を得ました。今さらに七十五円は、おびに短し、たすきに長しですから、校長以下日頃お世話になる先生方を請じて、あっさり飲んでしまいました。文芸界の編輯主任は、佐々醒雪先生でした。後年私が先生の文章研究録に筆を執るようになって、「試験休み」の話をしたら、先生は「縁だね」とお笑いになりました。

芦田惠之助「恵雨自伝」?

野地潤家「芦田恵之助著の一資料——「試験やすみ」——」