国語史資料の連関

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2012-05-03

[]ナゴヤことばを使ふのはあたりまへのことだと思つてゐた(津田左右吉「自叙伝」ナゴヤことばを使ふのはあたりまへのことだと思つてゐた([[津田左右吉「自叙伝」]]) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - ナゴヤことばを使ふのはあたりまへのことだと思つてゐた([[津田左右吉「自叙伝」]]) - 国語史資料の連関 ナゴヤことばを使ふのはあたりまへのことだと思つてゐた([[津田左右吉「自叙伝」]]) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

この家の生活のしぶりにはナゴヤふうのところがあつたらしい。

 ナゴヤふうといつても、具體的にどこがどんなふうであつたといふことを、たしかにおぼえてはゐないし、第一、ナゴヤふうだなどといふのが、大きくなつてからさう思つたまでのことであつて、子どもの時にはそんなことに氣がついたはずはないが、座しきのたてかた、庭の作りかた、衣類や調度は、いふまでもなく、すべての空氣が、少し知識ができた後のわたしには、さう感ぜられるやうなありさまであつた。茶室があつたかどうか知らぬが、父が頼まれて、かなり紙數の多い、圖の入つてゐる、茶の湯の本を冩してやつたこともある。それにことばが多くナゴヤふうであつた。わたしの家でも、おもにナゴヤことばをつかつてゐたから、これは變つた感じを與へはしなかつたが、やはり後から考へると、この點でも、普通の農家とは、かなりに違つたところがあつたであらう。わたしの家では、エドことばのなごりがおばあさんに少しあつたし、土地のことばも、父などがだんだんまねるやうになり、子どものわたしが一ばん多くそれを使つたが、全體として見ると、やはりナゴヤことばが多かつたから、ナゴヤことばを使ふのはあたりまへのことだと思つてゐたのであらう。この家がどうしてナゴヤとの連絡をもつやうになつたかは知らぬが、或はカミイヒダといふ村がヲハリ領ででもあつて、それが縁になつたのかとも思はれる。ヒガシトチヰなどはタケノコシ家の領分であり、その隣りには天領といはれてゐた幕府直轄の村もあつたが、フクシマはヲハリ領であつたやうに聞いてゐたかと思はれるから、カミイヒダもたぶんさうであつたらう。もつとも領分の關係はこんなにいりくんでゐたが、文化的には、一般に、ナゴヤ支配的な勢力をもつてゐた。わたしの知つてゐるころには、この地方は、行政區劃としては、ギフ(岐阜)縣に屬してゐたが、ギフは文化的には何の力も無かつたやうである。だからナゴヤふうといふのは都會ふうといふことであり、それがまた今のことばでいふと文化的なのであつた。從つて、この家にかぎらず、またカミイヒダにかぎらず、資産のある家は、大てい、どれだけかの程度で、ナゴヤふうを學び、さうしてそれを誇りとしてゐたのである。カネヤマやカバベの商家では、なほさらであつた。これは舊幕のころから明治時代にかけて、ひきつゞいてゐたことであつたらう。

津田左右吉「自叙伝」「子どもの時のおもひで」『全集』24 pp.26-27