国語史資料の連関

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2012-05-02

[]明治10年代の家庭教育津田左右吉「自叙伝」明治10年代の家庭教育([[津田左右吉「自叙伝」]]) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 明治10年代の家庭教育([[津田左右吉「自叙伝」]]) - 国語史資料の連関 明治10年代の家庭教育([[津田左右吉「自叙伝」]]) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 小學校へあがつたのは明治十二年であつたから、七つの歳であつた。その前に家で父から四書素讀を教へられたはずであるが、その時のことも明かにはおぼえてゐない。たゞ讀んだ本がミノ紙判の大きな道春點のであつたことは、その本を今でも持つてゐるから、知つてゐる。教へられる時には、一字一字、字をついて習つたに違ひないが、おさらへをくりかへすうちに、いつのまにか、そらでおぼえてしまひ、本をあけはするものの、字などはろくに見ずに口だけで誦んだことだけは、おぼえてゐるやうである。その日に教へられるところまでその本の始めから毎日おさらへをするきまりであつたと思ふ。それから、字をおぼえるのをむつかしいこととは思はなかつたやうである。もつとも、おほよその字の形でおぼえてゐるだけであつて、畫の多い字になると、その畫を一々はつきりあたまに入れたのではなかつたらう。としとつた今になつても、字びきをひかなくては、その畫をたしかに思ひ出すことのできないばあひがあるくらゐである。また本をあける時と閉ぢる時とには、兩手で捧げ持つて頂いたこともおぼえてゐるが、これは、かなり後までもさうしてゐたのだから、あとのことが記憶にのこつてゐるのかもしれぬ。このころに暗誦したことは、後になつてほとんど忘れてしまつたらしいから、かうして教へられたのは、何のやくにも立たないことであつたやうだが、それでも、さうして文字を知つたことが、小學校へあがつてからいろ/\の本を讀むばあひの助けにはなつたであらう。四書素讀を習つたくらゐだから、カナやいくらかの漢字書くことも、家で教へられもし習ひもしたはずであるが、それをどのやうにして教へられたり習つたりしたかは、はつきりとはおぼえてゐない。

津田左右吉「自叙伝」「子どもの時のおもひで」『全集』24 pp.8-9