国語史資料の連関

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2012-04-06

[]一高の寮に入るまではこういう関東弁の実際の響を全然知らなかった(和辻哲郎「自叙伝の試み」一高の寮に入るまではこういう関東弁の実際の響を全然知らなかった([[和辻哲郎「自叙伝の試み」]]) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 一高の寮に入るまではこういう関東弁の実際の響を全然知らなかった([[和辻哲郎「自叙伝の試み」]]) - 国語史資料の連関 一高の寮に入るまではこういう関東弁の実際の響を全然知らなかった([[和辻哲郎「自叙伝の試み」]]) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

東寮一番室で最も耳立つ声を出している三人は、偶然にも同じ信州人であり、従って東寮一番では信州弁が最も顕著に響いていたことになる。多分そのせいかと思うが、他の地方から来た人々も、その地方の訛りをそのまま出すことを少しも遠慮しなかった。青森から来た高谷はわたくしたち関西者には殆んど聞き取れないような青森弁を話した。それは陸奥の北端のことであるから無理もないと思ったが、東京に近い常陸筑波山の下から来た市村が、それに劣らず聞きとりにくい方言を話すので、わたくしは非常に驚いた覚えがある。中学時代の校長の永井先生が水戸の人で、相当に強い訛りがあるとは思っていたが、しかしあれは水戸弁そのままではなく、極力東京弁に矯正したあとのものであったことが、この時にやっと解った。それに比べると、隣県でありながら千葉県から来た宮野の言葉は、さほど耳立つものではなかった。高知から来た池知の土佐弁や、香川県の田舎から来た池内の讃岐弁などが、播州者のわたくしにとってさほど耳立つものでも解りにくいものでもないのと、ほぼ同様の感じであった。がとにかくこれらの人たちは皆田舎の中学を出て上京して来た人たちであったから、それぞれにまだ訛りを持っていたわけである。それに対して東京の中学から来た人は熊谷と林と、もう一人名前を忘れた面長の人とだけであったと思うが、熊谷は独逸協会の出身で東京に慣れてはいたけれども、もともと岩手県から出て来ているので、やはり東北訛りは相当に残っていた。だから東京育ちで東京弁を自然に話していたのは、林ともう一人の逸名氏と二人だけであった。ところがその二人がいずれも至極温厚な人で、あまり喋舌り立てたりなどはしなかったのであるから、東寮一番でいつも耳立って聞えていたのは地方訛りであった。それもわたくしの耳に強く響いていたのは関東のいろいろな訛りであった。関西生れのものほ池内と池知とわたくしとの三人だけで、数からは四分の一であったし、また讃岐弁や土佐弁はわたくしにはさほど珍らしく思えなかったのであるから、特に関東弁がわたくしの興味を刺戟したのは自然の勢であった。ラディオが普及している今では、こういう訛りの現象などは著しく状況が変っているであろうが、半世紀前にはわたくしは一高の寮に入るまではこういう関東弁の実際の響を全然知らなかったのである。

 がそういう風に方言を異にしているものでも、偶然同じ室に入って来て、食卓を共にし寝室を共にすることになると、おのずからその間の相違が薄れて来て、誰が同化の努力をしたというほどでなくとも、何となく共通の言葉が生じてくる。その際、おのれの訛りに対する固執の仕方が地方によって顕著に異なっているとか、或は個性的に一々異なっているとか、いろいろなことにも気づかざるを得なかったが、何よりも強く感じさせられたのは、そういういろいろな相違を超えて強く作用してくる環境の力であった。それは東京生れ東京育ちの人にも、田舎弁のまじった|鵺《ぬえ》のような一高弁を感染させるほどの力を持っていた。それが入寮した日から徐々に働き始めていたのである。

和辻哲郎『自叙伝の試み』「一高生活の思い出」