国語史資料の連関

国語史グループにあったブログ

2011-06-06

■松下大三郎『改撰標準日本文法」第一編 總論 第一章 言語 第一節 言語の本質及び諸相(6止)

 標準語と特殊語 標準語といふ語はもと西洋の Gemein Sprache, Standard language などの譯語である。殆ど文語のない國の語の譯語であるから專ら口語を指す樣に見えるが、日本語では文語にも口語にも適用すべきである。口語標準語は生きた文法書、生きた辭典として日本語の標準となるものであるから、現に行はれてゐる言語であつて他を壓倒するに足る勢力有り價値有るものでなければならない。即ち方言の覇者でなければならない。架空な語ではいけない。そこで當然東京中流以上の語が日本標準語になる。

 しかし東京中流にも男女の別が有り職業の別が有る。主僕、貧冨、老幼の別が有る。然らば標準語の中にも種々有るものと見なければならない。世間にはよく其れは商人語であつて標準語でないとか、其れは小兒の語である、下女の語である、標準語ではないなど云ふ樣なことを言ふ人が有るが、そんなことを認めると標準語は無味無色な約らないものになつて仕舞つて實際の言語でなくなつて仕舞ふ。標準語では小説などは書けなくなる。標準語では交際が出來なくなる。標準語はそんな約らないものではない。

 方言の矯正は國語敷育の重大なる任務の一つである。教育家が之に任ずべきことは勿論であるが吾々は大に之を文筆家に望みたいと思ふ。明治時代小説家には東京者が多かつた。地方で生れた人でも東京語の研究を怠らなかった。近頃は地方育ちの文藝家が剥出の方言を使つてゐる。冀はくは自己の力の社會に及ぼす影響の大なることを考へて大に東京語の研究をして貰ひたい。

 文語標準語口語の樣に簡單に言ふことは出來ない。現代文といふ語は有るが一定の標準はない。文語口語の樣に自然に口から出るものではなくて、平素の讀物に支配される。平素の讀物は人に因つて違ふ。新聞雜誌、敖科書、古書樣々なものから支配される。それ故その文體は等しく現代文と云つても幾分か古文に近いものも歐文飜譯風に近いものも漢文直譯風に近いものも有る。但しその文法に至つてはその文體の違ふ程の差はない。文體の差は主として用語及び言ひ廻しに在つて文法に在るのではない。そこで文語文法はその標準文法を求めるのに難くない。何でもない、古今に共通なる文法を求めれば善いのである。上代文法の中から後世用ゐられなくなったものを除けば善いのである。上代にはなくて近代に至つて始めて出來た樣な文法は殆ど無い。多少有つても其れは標準文法ではない。例へは「教へり」「捨てり」「此の文を譯せ」「心配す勿れ」などの類即ち所謂る誤で、其れは特殊のものである。

 

 

改撰標準日本文法 - 国立国会図書館デジタルコレクション