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2011-04-14

大矢透音圖及手習詞歌考』第三章 大爲爾歌 大矢透『音圖及手習詞歌考』第三章 大爲爾歌 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 大矢透『音圖及手習詞歌考』第三章 大爲爾歌 - 国語史資料の連関 大矢透『音圖及手習詞歌考』第三章 大爲爾歌 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 此の歌は、口遊《クチズサミ》に見えたるものなるが、この口遊といふは、前章にいへるが如く、源爲憲が、天祿元年の作なり。此の書、將門記と同じさまに、影寫印行せしかば、今も之を藏せる家、少からず。されども同じさまに、眞假名にてかける歌どもに交りたれば、大為爾歌などいひて、其の時代に於ける普通の仮名を教ふべき為に、特に作れるものゝ有ることに心付けるもの甚だ稀なりしなり。編者も曽て、大槻氏にて、一見せしこともありつれど、更に目に触れざりき。さるに先つ年、故谷森善臣翁に示され、初めて斯るものゝ有りけるを知れることの鈍ましさよ。後に、内務省にて、眞福寺?所藏の古書どもを國寶とせられんとて、一時それらの豫定のものを、同省なる寶物取調所に取り寄せ置かれし時、志あるものには、閲覽を許さるゝと聞き、往きて觀るに、そが中に此の書も加はりければ、主務官の許可を得て、此の歌、并びに附言をも、細心に映寫し置きたれば、今そをこゝに掲ぐ。原本一行尺餘、今之を縮摸したるものなり。


但し、此の歌の載せられたる口遊は、天祿の作なれど、そを遙か後の鎌倉時代なる弘長に寫せるものなるが故に、全編誤脱多く、此の歌の如きも、安佐利於比由久とあるべきを、於の一字を脱し、又注なる借字を供字と誤寫せるなどにても知るべし.

今嘗みに、此の歌の眞假名字體を正して、傍假名を附し、附言に訓點を施し見るときは、

大為爾伊天奈徒武和禮遠曾幾美女須止阿佐利□

比由久也末之呂乃宇知恵倍留古良毛波保世與

衣不祢加計奴  謂之借名文字

  今案世俗誦阿女都千保之曾里女之訛説也 比誦為勝

となり、尚其の意を譯するときは、

田居ニ出デ。菜摘ム我ヲゾ。君召スト。求食リ追ヒ往ク。山城ノ。打酔ヘル兒ラ。藻干セヨ。得舩繋ケヌ。

かくの如くなるべし。

抑も、前段いふが如く、此の大爲爾ノ歌は如何なる點に於いて、假名遣沿革、又は阿女都千詞等に對して、有益なる徴證を供するにかといふに、第一、自ら阿女都千詞の一字づゝを上下に置き、四十八首を詠みながら其の詞中に.分別せるアヤ二行のエ音を分別せざる順の弟子なる、爲憲の書に、同じくエ音を分別せざる四十七字の、此の歌を載せて、エ音二つありて四十八音なる阿女都千ノ詞を斥けたるが如きは、和名抄のアヤ二行のエ音混用と併せて、明確に、順時代は、既にエ音を分別せざる四十七音となれるを確證すること。第二、此の時代、既に四十七音時代なり。然らば四十七音にして巧妙なる伊呂波歌、果して空海の作にして、存在したらんには、之をこそ擧ぐべきに、かゝる拙き五七調の歌を取りて、之を誦するを勝れりと爲すといへるが如きは、自ら、此の時代に於いては、未曾て伊呂波歌の存在せざりしを確證するに足ること。第三、此の歌に對し直接の事にはあらざるも、其の附言中、阿女都千保之曾とあるにより、前章にいへるが如く、阿女都千詞文字のさまを追想し得らるゝこと、是なり。とにかく、阿女都千詞、既に、舊式として捨てられ、巧妙なる伊呂波歌、未だ出でず、其の間に於いて、一時の間に合せとなり、遂ひに巧妙なる伊呂波歌發生の導子ともなれるものならん。されぱ、單語篇のさまなる阿女都千詞、一たび變じて大為爾歌となり、遂ひに人口に慣れ易き今樣體なる伊呂波歌となりて、遠く今日に傳れるは、自然の進化といふべきなり。大爲爾歌、世に行はるゝ甚だ弘からざりしといへども、國字普及上は、いふまでも無く、假名遣を始め、他の手習詞歌考證に對して、徴證となるべき點少からず、豈徒、口遊雑歌中に没了して可ならんや.