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2010-04-21

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三田村鳶魚集七巻

 江戸ッ子の話というのでありますが、まず江戸ッ子とはどういうものであるか、ということから申し上げたい。江戸ッ子ということ、これは江戸子ではいけないので、どうしても「ッ」の字が中に割り込んでいないと具合が悪い。東京《とうけい》ッ子《こ》でもいけない。鶏が鳴くように聞えるからいけないのじゃないので、江戸を背負って生れた若い者、という意味にならないからです。大分御年配の方もおいでのようですから、申し上げるまでもないかも知れませんが、明治のはじまりにはトウキョウとは申さないで、トウケイと申しました。これは古い小説仮名のついた古い新聞  昔は少しましな新聞には仮名がついていない、今日でいう大衆向なものでないと仮名がついておりませんが、そういうものを御覧にたれば皆トウケイと書いてあります。私などの先輩で、大分世話にもなりました饗庭篁村《あえばこうそん》、この人の書いたものには、よほど後までトウケイと書いてあります。篁村翁だけではありません、あの頃の人は大概トウケイと書き本し、言いもしたのです、一人や二人でなく世間が、そういったのです。これはどういうわけでそうなったのか、この心持はどういうものかと申しますと、西京《さいきょう》と並ぶのが厭だったのです。西京がもとから向うにありまして、サイキョウというところがら、こっちはわざとトウケイといった。あっちではケイとは申しません。そのキョウを嫌って、ケイと申しました。西キョウに東キョウでなく、西キョウに東ケイという。キョウトという。こういう僅かな名称の上の毛嫌いも全く昔咄になりまして、今日はトウキョウでもトウケイでも、そんなことは字引に任しておけばいい、という時勢になっております。このわずか一字だけで考えましても江戸ッ子東京ッ子もなくなってしまった時に、ふりかえって江戸ッ子とはどんなものであるか、ということを尋ねるのは、実に容易ならん捜しものだといわなけれぼなりません。

 その捜しものの緒口がどんなところにあるかと申しますと、今日の女の子達が使っている言葉の中から見つけ得られるように思います。明治女学校が出来まして、女の子に本らしい本を読ませることを始めましたのは、何と申しても跡見花蹊《あとみかけい》さんでしょうが、この跡見というお婆さんは、公家の青侍の子供であります。この人が東京において新しく女の教育をはじめた、その御利益の最も顕著なものは、女の子の名前に子をつける。キナ子にアン子にウン子といったような調子で、遂には芸者の名にまで子をつけるようになった。これはどういうことかと申しますと、公家の方ではどんなおかしな女の子でも、または身分の低い者でも皆子をつける。それからはじまった話で、これがそういう風にひろがったのであります。それまで武家では何女、町家でも女は妻であると娘であるとを問わず、皆何女と書いてきている。その中へもってきて、新しい教育を授ける女学校が、キナ子・アン子の流儀で、東京を構いつけないで、どしどし西京風を振り回した。そのお陰を蒙りましたから、末派末流の女学校からはとんでもないものが出てくる。人の女房であれば誰でも奥さんで、豆腐屋の奥さん、洗濯屋の奥さん、車屋の奥さんという風に、誰でも構わず奥さんにしてしまった。その癖亭主の方は殿様じゃ、ない。昔は奥様といわれるほどの人の亭主は、必ず殿様に限ったもので、ただ一つこれにはずれていたのは八丁堀だけです。八丁堀の与力は妻女のことを奥様といい、亭主のことを旦那様といっておりました。それが今日では片っ端から奥さんになってしまったんだから、恐ろしく女権が拡張されたわけだ。ですから、女房が亭主のことを何といっていいかわからない。「宿」というのもあれば、「手前ども」というのもあり、名字をいうのもある。そういう風に、身分も職業もわからないようにたたき壊してきた。その中に一つおもしろいものが残っております。それは女の言葉の「だわよ」というやつで、これを大人がいうんだから、私などにはびっくりものですが、それが実は江戸の名残りで、西京や中国・九州あたりにはない言葉なのであります。

 それではこれは江戸のどういう場所にあった言葉かというと、そんな詮議などはしない。キナ子・アン子流だから、生れ場所や、意味や、調子合などを考えることは少しもない。御年配の方は無論御存じでしょうが、これは裏店の女の子に限った言葉であります。元来は「そうだわ」というのと、「いいよ」というのとは別だったが、近頃は「わ」と「よ」とが、負《おぶ》さって一緒になっている。その言葉がどうしてそんなにひろがったかといいますと、こういう裏店で育った娘が下地《したじ》ッ子《こ》に出て、大きくなっても子供らしく見られたい心持から、こういう言葉を使う。それがペンペンの連中にひろがってきた。ところへもってきてキナ子やアン子の連中は、昔のことなどは知りませんから、パクパクと鵜呑みにして用いる。それが女学生間にひろがり、女学生が大きくなって、主婦となり母となっても、依然として「わよ」をきめ込んでいる、という有様であります。