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2010-04-20

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三田村鳶魚集七巻

漢学書生

 明治の初年には先人|鶯谷《おうこく》が、下谷御徒町一丁目に塾を開いておりました。塾の名は稽古私塾、当時この辺は漢学書生の巣でした。二丁目の塩谷宕陰《しおのやとういん》、練塀町の島田篁村、摩利支天横町には日尾荊山の娘がいた。和泉橋へ寄ったところに海保竹逕もいました。近所に中根半嶺萩原秋巌《しゆうがん》の宅があって、小室樵山《こむろしょうざん》は拙宅におりました。書家といわれる人達も、素読《そどく》やきまったものの講釈はしましたから、本読みの木屑《こっぱ》はそこへも通う。奥原晴湖《せいこ》・福島柳圃?《りゅうほ》・中島杉陰?・山本龍洞?《りゅうどう》・服部波山《はざん》等の画人も最寄りにおった。平常塾生等が喧嘩をする、一つ塾の内でも喧嘩は珍らしくない。他の塾を相手の喧嘩も折々はある。けれども何事かあると漢学組で一致する。その時分には和泉橋の所に関門があって、午後九時過ぎては無燈の者を通行させぬ。ところが書生は無燈が多い。ある夜のこと無燈の書生を関門でとがめた。書生が言うには、貧生で提燈を買う銭がない、しかし無燈では通行させぬとあらば、これを拝借いたそうと、番所の式台の前にある台の付いた置提燈《おきぢようちん》、一対あるその片ッ方を提げて、のこのこ出てゆく。その置提燈は人間が立っているはどの高さなのだ。提げるというよりは引き摺るというカが実際であろう。これにはさすがに番人も呆れたが、棄ててはおけない。六尺棒をとって引摺り提燈を追い駆ける。引摺り提燈は柳原から御徒町へ帰るのである。散歩に出ていた書生等がそれを見付けたからたまらない。例の通り直ちに漢学組の一団となって、引摺り提燈を援護する。追って来た番人はヤアヤアという掛声で胴上げにされた。人数が多いから仕様はない。やがて提燈を神輿のように担いで、胴上げと押し並んでヤアヤア、エッサエッサと走り回った末、番人は投げ出される、提燈は大藤堂《おおとうどう》の堀の中へ打ち込み、鬨《とき》を揚げて書生等は散ってしまったなどという、愛嬌のある乱暴を働いたものです。

三様の着袴

 一見して漢学書生と知れるのは袴の着け方があるのです。袴の紐を前へ正しく畳んで結ぶのが和学書生、腰板へ紐を掛けて前で結ぶのが洋学書生、前でも結び腰板の上でも結ぶのが漢学書生、それに佩巾《はいきん》とでもいうつもりか、漢学書生の腰には必ず手拭を下げている。頭は切り下げ、これを残念髷《ざんねんまげ》という。大髪《おおたぶさ》は陳腐、散髪がしたい、だが切るのも惜しい、すなわち残念髷の称を生じた。少年のメカスものは髻へ金柑元結《きんかんもとゆい》一把位も巻いた。それはそれは贅沢不経済な話、一般は髪結床へ行くのを恥じて自分で結う。自分では紫か浅黄の打紐を巻く。木強漢《ぼっきようかん》になると紙鳶《たこ》の糸を使う。書生のゆく理髪店は、東京中にただ一軒、海運橋の角、第一銀行の真向うにあった。屋根から画の描いた大暖簾を下げてある。その画は『水滸伝』の人物、それでも籐椅子を使っていました。平生の散髪料が二朱、始めて髪を切るのは三朱に祝儀が一朱、都合一歩でしたよ。二朱にしても書生には容易でない。残念髷、今日の浪花節などのような頭を久しくしていたのも、散髪料が不廉であったためでもあろうか、それでも散髪した者に五分刈がない。皆撫で付けか、長分けであった。

按摩剣術

 別に先生はない、したがって何流と正しい剣術ではありません。各自に面・小手を買って来て撃剣をやる。それを按摩剣術《あんまけんじゅつ》といったのは目暗打ちとでもいう意でしょうか。竹刀《しない》の先革が破れておったのを知らずに、突きで目を潰したことがあったから、突きは一切禁制でした。

書生等が好んで読んだのは『花月新誌』『団々珍聞《まるまるちんぶん》』『驥尾団子《きびだんご》』『支那事情《しなじじょう》』『よし余誌《よし》』『朝野新聞《ちょうやしんぶん》』『報知新聞』『日日新聞』『仮名新聞』などでした。夏は銭湯の代りに川の近い所の者は泳ぐ。喰競べに団子を二朱喰って優勝者になった。二朱で何本あったか知りませんが、二朱喰える者は少かったと言います。それでも鮨屋で芸者を上げるなどのことはした。尺八を吹いた者はなかったが、清元を稽古したのはある。腰の手拭が皺だらけなのに困ったところで、師匠に火慰斗《ひのし》を宛行《あてが》われて、ようやく綺麗にたためたなどは大笑いだ。そうかと思えばいずれの塾も徹夜が大流行、自分のところにいた流山《ながれやま》の味淋屋秋元三右衛門は四十三夜を徹したので大自慢だった。ただ寝ないのが味噌で、〓々《ぼうぼう》として何のためにもなりはしない。徹夜の伽に碗豆や塩煎餅を喰う。夜が更けると菜飯・燗酒が、私塾の窓下を得意場にしてきっと荷を卸す。書生等も塾の出窓の格子の下を、盆のはいるだけ取外しが出来るようにしておいた。それから早く読むことの競争が盛んであった。朝から昼までに韓昌黎《かんしようれい》の詩集五冊を読了する。坊主のお経より早い。早く読んで何の効がある、そんなことは問うところでない。その頃四日市にランプを売る唐物屋《とうぶつや》が二軒あった。いずれも吊り洋燈《ランプ》、繖《かさ》は西洋紙の厚いので、金魚などが描いてありました。

行燈《あんどん》から洋燈に替るのを贅沢だと思った。行燈でさえ机二脚の間に一つが上等、行燈を中心に四脚の机が卍形《まんじがた》に並ぶのが普通、それが五分心のランプを吊って、十人円形に囲む。初めは明るくて困りました。石油は所在に売っていたが、普通の石油は火が早いから危険だというので、安全|火止《ひどめ》石炭油を限って使う。この火止は神保町の辻平兵衛一軒で売る。配達もしましたが、大概買いにゆく。

   大刀を担ぐ

 帯刀の時は着流しが洒落《しや》れた風体だというので、紫縮緬兵児帯《へこおび》を後へ結び大刀一本、白鞘《しらざや》に栗形を付け、紐を巻いて落し差し、拵えを嫌った。塾生は武家の子弟が多い。田舎から来るのは百姓出のもある。塾中では上民の別なく一斉に二本差す。当人も差せば肩を駢《なら》べて歩行《ある》ける。それが大分嬉しい。父兄が出京した時分に、僚友からもいえば、当人からも双刀の買入れを談しる。仕入れの刀は村松町が安い。村松町物と言った。仕入れの刀は元来子供の祝差《いわいざし》に売るので刃が引いてある。書生のは刃はあるが斬れるわけのものではない。鞘は赤地へ艶漆《つやうるし》で蜻蜒《とんぼ》などが描いてある。脇差は鎧通《よろいとお》し、鍔りないのが流行した。新しい塾生は仕入れの刀でも快く差して、湯屋の二階などへ得意で上がるのはよろしいが、腰に慣れないから遠路には大刀《かたな》が厄介でならぬ。遠足の中途で大刀を担いでスタコラやる。これが真面目だけに一層の奇観を呈す。

   散髪の女学生

 漢学書生は概して洋学を嫌う。夷狄《いてき》の学だといって反目する風があった。各自の学問は何のためにするか、ただ学問をすればよろしい、人間は学問すべきものだというまでである。地方出の書生は都会の聞見が直ちに修行であるとした。学派の別を知って入塾するほどの者はない。名高い先生のところへは書生が集った。盛んな塾で百人、少い塾で二三十人、塾生の年齢も一定しない。三四十歳もあれぽ十二三の少年もいる。しかしいずれも無資無産の者はない。女子の通学もあった。高島田・銀杏返《いちようがえ》し・肩はずし、あるいは散髪に馬乗袴のもいた。書生羽織といって、男女ともに身長ほどの羽織を着るのが大流行、縅《おどし》の慰斗目《のしめ》、黄八丈で拵える。男も着たけれどもまずは女が着た。男は多く毛編子《けじゅす》・紋呉呂《もんごろ》で拵えた。女子は大概|素読《そどく》で、四書五経十八史略元明史略筆で、男女一緒に授業する。素読にくるのは男が七八歳、女は二十前後の者が多い。

   羅卒の入込み

 束脩《そくしゅう》は一分、二分、二朱もあった。月謝はなくて二季に二分ずつを納めた。寄宿者は月俸が三分か一円で、年末の畳替えには通学生も寄宿生も、海人二十銭ずつ出した。それが月謝になったのは明治八九年の頃だが、一朱ないし二朱を越えなかった。塾の月俸は下宿より安いから、今なら巡査、当時の羅卒《らそつ》が自分の所にも十余名おった。羅卒だとても読書の志のない者は来ない。置きもしない。単に下宿より安いという量見でいては、寮友から擯斥されてしまう。講義は毎日午前にある。年長者の聴く特別講義は毎月三回ないし六回、これは午後、十日に二回の輪講、これは夜間、詩文会も十日に二度、席上と宿題とがある。課題は一綴りにして無名で出して、甲乙を付けて貰う。紙末に「二三子再拝《にさんしさいはい》、伏乞聖斧《ふしてせいふをこふ》」などとやる。休暇は一・六の日をドンタクと定めた。あるいは五・十の日を休んだ塾もある。休日以外の外出は入浴・刈髪《かりこみ》を時間で許す。その他にやむを得ざる場合のために、札が三枚渡してある。やむを得ざる外出には、その札を幹事に出して許を受けるが、一個月に三枚の札であるから、やむを得ても得なくても、四回外出することは出来ぬ。自分のところでは幹事と汎称する四件の職員があった。視業《しぎょう》、これは学頭、次が視客《しかく》、これは目付役で、塾中の賞罰を掌《つかさど》る、詰責する。場合には退塾もさせる。あるいは外出札を取り上げる。次が視計《しけい》、帳面・算盤を控えて、塾の会計を担当する。塾の会計は師家とは全く別であった。次が掌謁《しようえつ》、取次役で少年が交替に勤める。先生は塾生を置いて下宿屋を兼業したのではない。先生の収入はただ月謝または二季の謝儀と束脩だけだから塾では喰えぬ。故に大名から俸禄を受けるとか、門下の富人から取り賄うとかで、先生の生計を立てたものです。

売ト者退治

 当時の漢学書生は夕立に逢ったからといって、疾走するようなことはない。腰の手拭を出して被ることさえせずに、悠々と濶歩するのみか、かえって吟声高く行き過ぎるのを常とした。書生の敵視するのは役人が第一、柳原の売ト者《ばいぼくしや》を凹《へこ》める。議論を吹き掛けて、果ては看板を取り上げる。売卜者に学問のあるのはない。往々にして兜を脱ぐ。書生等は売卜者を負かして、幾枚看板をはずしたといって、剣術屋の道場破りでもしたように得意がって吹聴しました。維新後もしばらくは塾生の習字に、半紙を綴じて寺小屋の通りの草紙を使っていましたが、明治八九年頃からは唐紙白紙へ習う風になって、幾分か書けるようになると、麗々しく揮毫したのを、柳原の露店へ持ってゆく。買わせるのではない、与えるのです。すると同輩を伴って散歩でもする時分に、先日はありがとうと礼を言われます。それが自慢なのだからおもしろい。沢山与えておけば方々から礼を言われる。それを往来のたびごとの名聞にして喜ぶ。本より与えたのは陰の幕、彼等が喜んで自分の墨跡を買う。何分の利益もあるものとみえるというようなことを、同輩に聞かせてゾクゾクしていた。

かつて亀田雲鵬《うんぽう》翁から聞いた昔話を書いたのである。我等は多少ともその語気を写すのに注意したつもりだ、話の柄のみならず、話の方が翁の人品、翁の意気を髪髭させる。読んで下町儒者の風采が鮮明に出てこないようなら、我等の筆が及ばなかったのである。