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2009-01-10

[]山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第四章 漢語の特色 山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第四章 漢語の特色 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第四章 漢語の特色 - 国語史資料の連関 山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第四章 漢語の特色 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 漢語がわが國語の中に入るに及びて、その漢語が、その本來の特色をいづこまでも國語のうちに於いて保ちたるか、若くは國語の中に入る際、或は國語に入りて後にそれらの有する特色を多少變更すること無かりしか。或は又その特色により國語が影響を受けたる點なきか。これらの問題も亦この研究に於いて顧みるべきものゝ一なりとす。而してこの問題を研究するに先だちて一般に漢語の特色如何といふことを知らずば、これらの點の存するか否かを到斷すること能はざるべし。この故にこゝにそれらにつきて大略を述べむとす。

 漢語は、その外形より見れば、現代の支那語と頗る趣を異にする點ありて、漢語を知りたりとて現代の支那語を知りたりといふべからず、又支那人といへども端的にわが漢語をきかば同源の語とは思はざる程なるべし。然れどもその差は外形のみに止まりて、その本質に於いては今の支那語漢語も一にして殆ど變更なきものといひて可なり。今まづ支那語本質とせらるゝ點を基として説明しつゝ行くべし。

一、その言語が、單一なる綴によりて成立せるものにして、單綴語()と稱せらるゝ特質こゝに存す。現時の支那語は必ずしも一綴音より成るものみにならずといへども、それら複雜なる組織の語もそれを分析すれば、いづれも一綴音の語の結合によるなり。この點は漢語も同じ。

  サン セン ジツ ゲツ

  山  川  日  月

の如きは單綴語たること明かに、

  牡丹  驢馬  世界  制度

などいふものは一語にして二綴よりなれど、それを源に遡れば、これを分解したる

  牡-丹  驢-馬  世-界  制-度

の各はもとより一語たるものにしてたまくこれらの二語を結合して一の複合語をなせるに止まるものなり。而してかくの如き單綴語たることは支那語漢語の特質の第一として注目すべき點にして、國語にはかくの如く固定せる現象なく、單綴の語もあり、又二綴三綴の語も多く存す。

二、支那語單綴語なるが爲に、その一綴としての音韻の組織は頗る複雜にしてその變化は多樣なり。吾が國語の如き多綴語にありては、ある綴の單位の型を幾つか定めて、これを綴り合せて種々の語を構成するものにして、その綴り合せ方の變化自在なれば、ある一綴のうちに於いて音韻の變化を種々に立つることはかへりて言語の操縱と理解との上に不都合を來すべきなり。然るに、支那語に於ては、一綴以外の語なければ、その一綴りの音の内部に於いてその言語の多樣性を求めざるべからず。この故にその母音子音の組合せに於いては日本人などの夢想せざる多趣多樣の組合せをなせり。今、韻鏡の〓字を算するに總計三千九百三十五字(多少の誤算あらむか、但し大局には關せざらむ)なるが、これを唐代の漢語の昔の範疇の極大限とす。之を今の北京官話の約四千二百に比ぶれば、古今略大差なきものなるを見るべし。さて、今の官話の組織を見るにウイリヤムの漢英韻府によればその音の型五百三十二種ありといひ、支那聲音字彙によれば、更にそれを約してその音の型三百九十八ありとせり。この三百九十八も確定的のものにあらずしてカール、グレンは四百三十ありとせり。然らば、支那中央語の外形は大體これらの數に止まるものといふべし。而してカール、グレンの説く所は支那語の音の性質隨つて漢語の音の性質を知るに便なれば、次にその言を引かむ。曰はく、

現代の各方言に於てはいづれも單位詞()の數が極めて貧弱であるため、同音異義のものが非常に多數である。北京官話の如きは最も貧弱な方言の一つで、それもその筈、區別の出來る音節と言へば、約四二〇個を越えず、而もその多くはお互に紛らはしい位に類似してゐる。(中略)

即ち支那語といふ高度に發達した言語の立場に於ては、一切の單純詞()をこの四二〇個の音節に分配しなければならぬといふことになる。ここに一册の小字典があつて、支那語の中で最も普通に用ひられる單純詞だけ約四二〇〇を含んでゐるとすれば、この字引では一つの音節に對して夲均一〇個もの異なつた詞があることになる。尤も各音節に對しては平均に分配しなければならぬといふ法はないから、一所に集まつた同音詞の數も少かつたり多かつたりする。常用詞四二〇〇の中で と發音されるのは二つしかないが、帥といふ發音のものは六九個もあり、 は五九個、 は二九個、其他これに準じてゐる。 (岩村、魚返兩氏譯、支那言語學概論)

といへり。今、このカール、グレンの意見によりて多きをとりて、四百二十の音の型をとりて考ふるに、支那語はその四百二十音の型を以て一切の思想を發表し、又受入るゝものなるべし。然れども、それの實際に於いてはカール、グレンも、前文に引きつゞきて、

一見混沌としてゐる樣ではあるが、然しこゝに一縷の光明が有る。といふのは同音異義詞の不便は音聲上の或要約によつて餘程輕減されてゐる。それが、ここに述べようとする音樂的アクセント()即ち所謂四聲()である。(中略)支那語に於てはこの現象は非常に重要なものである。支那語では總ての詞に各々一種特有の樂調()があつて音聲上の其他の點では全く同一の詞もそれ/゛\異なつた樂調になつて區別することが出來る。

といへるが如く(かくてこの四聲なるものにも、變遷はあるが、今はそれを論ずるを要せず。)とにもかくにも四百二十の音の型をば、一層複雜にして以て、多數の思想觀念の發表受入れに便せむとせり。然れども之を實際につきて見るに、それらの各音に各四聲を分ちて、その音調の差によりて區別するものとしても(その音の型の數は千六百八十に止る理なり。然るにこの千六百八十といふはただ理論上しか考へらるといふに止まりて、實地に存するものはその數遙かに少く、支那聲音字彙によれば千二百一個に止まれり。即ち支那語をあらはす文字は萬を單位として計算すべき程多けれど、その音の數を以てすれば、支那語の形體は僅かに千二百一個に限られたることゝなる。この故にかく四聲に區別しても、その一の音のあらはす語の數は頗る多きなり。カール、グレン又曰はく、

ところで、斯ういふ工合に色々の調子があると、全くの同音詞といふものは餘程少くなつて來るわけではあるが、然しこれで以て完全に救はれるかと言ふとさうは行かない。既に述べた樣に四二〇〇詞の中でiといふ發音のものだけが六九個もある。これだけの數のものを四聲に振分けて見たところで、尚一つの聲《セイ》に對して一七個のiがあるわけで、これではまだ便利どころではない。而もこの六九個は四つの聲《セイ》に平等に分配されるのでないことは勿論で、北京語では六九個のうち七個だけが第一聾、一七個が第二聲で、第三聲は七個、第四聲は實に三八個となつてゐる。

と。かくの如きことは、多少の差違はありとしても、漢語の音そのものにも適用して説かるべきことなりとす。然るにそれらの漢語がわが國語に入りては四聲を以て區別することなきが故に音の數はその四百二十に還元すべき道理なり。しかも、それらのうち、漢語にありてはch、k、P、t、ts、tz、の子音いづれも破障音にしてそれが、支那音にては普通の發音と出氣音との二樣を分ちて、以てその音の複雜性をなすものなれど、その音の組織體より見れば同一種のものといふべく、而してこれらの出氣音はまた國語になきものなれば、これを國語にうつせば、その出氣音も亦普通の音と區別なく同一になるべし。さてこれらの出氣音が相對音としてあらはるゝもの百一個あり。今これを減ずれば、約三百十八個となる。これ實に支那語音韻組織の本幹なりといふべし。これら三百許の音を基としてその發音法を種々に調節して變化を與へて千二百一個の音の型を生じ、これを以て一切の思想の發表受入れをなせるものこれ支那語の姿なり。

 かくて更にその音韻の組織を見るに、首音としては子音に於いて

  ch k p t ts tz f s ss ch hs m n h j i w y

の十八を有し、母音に於いて

  a e i o u ue

の六を有し、尾音たる子昔として

  n ng h rh

の四を有するものなり。以上二十八の子母音を以て、種々に組合せて二百九十七の音體を組織せるものなるが、それには母昔組織上に單母音の外に

  ai ao ei ia ie iu ou ua ui uo uea uee

二重母音十二個と

  iao    uai   uei

の三重母音三個とを用ゐ、而してそれらの母音其のまゝにして用ゐらるゝものと、上にいへる末音たるべき子音を伴ふものとありて頗る多様の變化を生ずるなり。かくの如きは國語音韻組織には到底見るべからざるものなり。而して支那音韻には時代によりて甚だしき變化ありて、古今同一轍ならず。然れども、かくの如く單綴の内部に於いて種々の變化を企て、言語の多樣性に應ぜむとしたりしことは、通じてかはらざる現象なり。されば、漢語日本人にはじめて知られし當時もかゝる複雜なる組織なりしならむが、今は頗る單純になりてあり。それらの事は、別に項を新にして説くべし。

三、支那語は單綴なると共に、文法上の語形の變化といふものを全く有せず。この故に孤立語()なりと稱せらる。これはもとより漢語にも存する現象にして、この點はわが國語などと著しく異なりとす。

四、支那語文法上の特徴は種々あり。その著しきものは擬人法を行はぬ事なりと稱せらる。例へばこゝに

 我招人

といふ文あり、これと構造の似たる

 手招人

といふ文ありとせよ。甲の「我」は主格なるが、乙の「手」は主格にあらずして「手にて」招く意なり。これは「手」を擬人することなきによる。この特性は漢語にも存し、わが國語にも共通するものなり。なほ支那語語性名詞の性、數、動詞時制をば文法上の形式として有せざるものなり。この故に特に必要なき限りはそれらの事をいひあらはさずして用を辨ずるなり。この點は歐羅巴語に比して簡單なり。而して國語にも名詞の性、數を文法上の形式として有せざるが、所謂動詞時制に似たるものはわが國語にも存すと認むべきを以てこの點に於いて國語と異なりとす。かくの如きは一方より見れば、支那語が幼稚にして單純なる如くなれど、他方より見れば、その語性が著しく抽象的概括的なりといふをうべし。この特性と文章意義の明瞭ならむことを求むることの要求と相待ちて、助辭の發達を促したりと見ゆ。この助辭には所謂前置のものと、後置のものとありて、それらをその相手の語の前又は後におきてそれ/゛\の意義を以て文法上の關係を示すものなり。それらのうちには他の國語の中に類似のものを求むべきものもあれど、全くこれに該當せぬものもあり。從つて、それらは他の國語にて飜譯しうるものもなきにあらずといへども、多くは他の國語にて飜譯し得ざるものなり。而して、それらのうちには、歐文のコンマ、又セミコロン、ピリオドの如き用をなすものも少からず。漢語漢文に於いてもこの助辭は著しく、「焉」「兮」「矣」などの類は國語飜譯し得ざるものにして、その理由は上の如き特性に基づくものなり。而して、それらが、わが國に借用せらるゝことなきはもとよりなり。

五、支那語は以上述ぶる如く、多少の助辭ありて文法上の形式をあらはすことを負擔すといへども、要するに文法上の形式は甚だ簡單にして特にいふべきことなき程のものなり。かくして支那語上の文法上の形式の重要點とすべきは語詞の排列の上に在り。即ち同一の語詞もその位置によりて文法上の資格を異にすること少からざるものなるが、漢語は全くこの性を有す。國語にも位置と資格との間に關係あれど、そは同時にそれに助詞を加へ、又はその語形の變化をなして示すを普通とす。

六、支那語は以上の如く、單綴語にして孤立語たり。而して同一の語も用ゐ方によりて文法上の役目を異にすることある、その役目の差は主としてその位置によつて示さるゝものなるが、それと同時にそれの音調を更へて(音の組織の本體は依然)その資格をかへたるを示すことあり。漢語も亦この特性を有す。たとへば、

 風は「カゼ」の意の時は平聲東韻にして、「サトス」の意の時は去聲送韻なり。

 中は「ウチ」「ナカ」の意の時は平聲東韻にして、「アタル」の意の時は去聲送韻なり。

 重は「カサナル」の時は平聲冬韻にして、「オモシ」の時は上聲腫韻にして、「オモンズ」の時は去聲宋韻なり。

 予は「ワレ」の時は平聲魚韻にして、「タマフ」の時は上聲語韻なり。

 假は「カル」の時は上聲馬韻にして、「休假」の時は去聲示馬{4875}韻なり。

 傳は用言の時は平聲先韻にして、體言の時は去聲霰韻なり。

 分は用言の時は平聲文韻にして、體言の時は去聲問韻なり。

 吹は「フク」の時は平聲支韻にして、「カゼ」の時は去聲〓韻

なるが如し。これらの四聲の差別はわが古代にありては漢詩文をつくるものはもとより、漢文をよむにも注意してこれを區別せしが如しといへども、近世に至りては漢詩文をつくる上にのみ必要とせられて、一般の讀書には區別せられざるやうになれり。今日に至りてはたゞ漢詩又は特殊の韻文をつくるものゝ注意に止まるものゝ如し。從つてわが國語に入れる漢語にはかゝる音調をもとの如くに傳ふるものなし。

支那語は上述の如きものなれば、同音の語は頗る多きものとす。今支那聲音字彙によりてその同音語の多きものゝ一例をあげむ。

chi 1(上平)几、机、肌、飢 機、磯、譏、饑 難 積、績 基、箕 迹 畸、鮪、欹 稽 撃 激 喞 姫 笄 羈 覡 汲 乱 齎

  2(下平)吉師、螂及、仮、級、笈急亟、極集磧疾、疾籍椶

  3(上)己…幾、磯給擠、霽脊戟鰤

  4(去)記、紀、忌祭、際濟、劑、霽伎、妓、技、屐冀、驥寄寂計既

    楫、緝  繼冖 季  曲蹟  山及  棘  」劇… 褶  嫉  鶺  髟吉 曁

    計八十四

捕 1 七 妻、凄、棲、悽 期、欺 湖 漆 谿 叶 嚥 聳

C

  2 其、棋、棊、碁、祺、麒、旗 寄、崎、騎 岐、岐 所 祗 齊、臍 耆、鰭 畦 畿

  3起豈乞、迄、訖啓屹綺

  4氣器棄泣戚契企砌哉

   計五十 合計百三十四(以上は同字異體のものを除きたり)

これによりて見れば、同一の上平(1)の中にある全く同一の語形の語が二三十も存するを見る。若しこれを日本化せしめて、その四聲の別をさり出氣昔をも一にせば、一の伽に對して百三十四語屬すといふべきさまなり。而してわが國語に化せる漢語はまさにこの状態に在り。これを古く廣韻に溯れば、これらの韻は

 平聲  支  脂  之

 上聲  紙  旨  止

 去聲  〓  至  志

の如く分れてありしものにして、吾人はこれらを混じて一にすること又今の官話の如くにせり。もとより官話とわが漢字音とはその變化の方向を異にすれど、同音の語(從つて同音の字)が漢語に多く存する理由はこれによりて推しうべし。

八、支那語の本性は單綴語にして孤立語たる點に存すれど、その限られたる數の語を以て無數の場合に應ずることは甚しく不便にして且つ無理なりといふべし。この故に、これらの固有語をば二又は三合せて、一の觀念をあらはすこと起れり。これ所謂熟語なるものなるが、これも亦頗る古くより行はれ、わが國に入りはじめし頃にはこの熟語は既に成立してあり、從つて本邦にも盛んに入り來りしことなしとすべからず。かくしてわが漢語にはこの熟語の形なるもの少からず。これらの熟語の組織につきては後に少くし論及すべし。