国語史資料の連関

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2009-01-08

[]山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第二章  漢語傳來とその國語に入れる状態の史的概觀及び研究の方針 山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第二章  漢語傳來とその國語に入れる状態の史的概觀及び研究の方針 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第二章  漢語傳來とその國語に入れる状態の史的概觀及び研究の方針 - 国語史資料の連関 山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』第二章  漢語傳來とその國語に入れる状態の史的概觀及び研究の方針 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 漢語日本人が知るに至るには、日本人支那人とが直に相接するか、若くは漢籍日本人が讀むかの一一の方法によるべきものなるが、そのはじめ何時、如何なる手續によりて日本漢語が傳はるに至りたるかの明確なることは今日に於いこれを知ることを得ず。日本書紀の傳ふる所によれば應神天皇の朝、十五年に百濟より來朝せる阿直岐について皇太子菟道稚郎子が經典をよまれ、その翌年、同じく百濟より王仁といふ人來朝して皇太子の師として諸の典籍を教へ奉りたりと見え、古事記には王仁の奉りしものは論語十卷千字文一卷なりといへり。かくの如く漢籍を學ばれしことなれば、漢語をこの時に知るに至られしことは疑ふべからず。これより以前秦徐福が孝靈天皇の朝に來りて經史を傳へたりといふ説あり、又神功皇后新羅征伐の時に圖書文籍を收めて還られし由史に記すが故にこれらの時に漢字を知りしならむといふ説もあり。されど、これらは確證なきことなれば遽かに信ずべからず。かくて繼體天皇の時、五經博士の來貢ありなどして漢籍の講讀は漸次盛んになりしならむ。

 なほ又應神天皇の御代には使を呉につかはされし事ありし由を史に載す。呉は三國の呉の地にして、後に至りてもわが國にてはその名を以て呼べり。これは今いふ中支の地にして、南京を中心とする地方たり。かくて、その後も、雄略天皇の御世に屡呉の地に遣はされし由なり。かく支那に直接に交通する時にはその使人は直ちに支那人に接し漢語を知るに至るべし。次に推古天皇の朝には隋に使を遣はされ、かの國より答禮使來り、それより後、遣唐使留學生等の派遣頻繁なりければ、漢語の輸入も少からざりしならむ。

 さて、考ふるに、かく漢籍を讀み、漢文に親み、漢語を知りたりとも、之をたゞ漢文の爲に用ゐるのみなるときは未だ漢語をわが國語の中に輪入せりといふこと能はざるべし。しかも、かく漢語に親しむにつれて漢語國語の中に輸入し得べき準備は十分になれりといふべき形勢を生じたる時期あるべきなり。次に又、上の如く漢籍をよみ、漢文に親み、漢字を知るに至らば、これを使用すること起るべく、而して、しか、漢字を使用することは一面に於いて漢語の操縱に深き關係あるものなれば、これらの事また漢語の輸入に大なる關係あるものなるべし。わが國に於いて漢字を用ゐて言事を記すに至れるはいつ頃よりなるべきか。日本書紀を見るに、履中天皇の四年に、

  始之於昌諸國一置昌國史一記轟言事一達昌四方志一。

とあり。こゝにいふ國史の國は諸國の義にして、史は古來フミビトとよめる如く、文書記録を掌る官にして、國々にその史を置きて四方の誌(志)を通達せしめられしなり。かく史官ありし以上、文章記録すること行はれしを見るべく、諸國に之を置かれし以上、中央にはもとより、その前に史官の在りしことを見るべし。さて、その史官は主として歸化人を以て任ぜられしものにして當時著しきは東西の史部なりとす。東(ヤマト)の史部漢人阿知使主の子孫にして、西(カフチ)の史部は百濟の博士王仁の子孫なり。この他の史部には田邊史(漢人)筑紫史(魏人)等などあるが、いづれも歸化人の子孫なり。これを以て察するに、それらの史官が用ゐしは主として漢文なりしならむと思はるれど、その實際を徴すべき資料なし。

 さて推古天皇の御世に至れば、聖徳太子著作、種々の金石文等ありて今に傳はれり。その遺れるものに就きて見るに、その頃の文章には純漢文なるあり、又著しく國語の風をあらはしたる文章あり。それらのうちに地名人名などには漢字を音のみにて用ゐて假名の如くにせるものも少からざるなり。更に又天皇記國記等の撰ありし由なれば、漢字漢語漢文に親むこと盛んになり、漢語も或は既に國語同化せしもの多少存したりしならむと思はるれど、確證を見ず。然れども、とにかくに漢語國語の中に輸入しうべき形勢は既に馴致せられたりといふべし。

 漢語漢文は所謂漢籍によりてのみ傳はれるにあらずして佛教の經論等によりても傳はれり。佛教の典籍は本來梵語にて傳へられたるものにして、わが國にも古くその梵經の斷片の少しく傳へられたるものありしが如しといへども、その宗教の實際に傳ふる要具としては專ら漢譯の經論なりしなり。佛教のわが國に入りしは欽明天皇の十三年なりとす。これにも少しく異説なきにあらずといへども、今論すべき程の問題にあらず。欽明天皇の時に傳へしものは日本書紀にたゞ經論若干卷とあるのみなれば、今これを知るに由なし。推古天皇の朝には聖徳太子の勝鬘經、法華經を講し、又勝鬘、法華、維摩三經の義疏を撰せられしことあり、この御世より佛教の盛んになるにつれて、經論の行はるゝことまた盛んになり、これよりしてまたその佛教の經論に用ゐられたる漢語國語に多く混入すべき勢を馴致せり。

 かくの如くに、漢學佛教の盛んなるにつれ、これら二方面より漢語が入り來るべき勢を盛んにつくりしが故に、その爲に國語に入り來りし漢語は少からざりしならむと思はるれども、この時代のものとして明かにこれを示すこと能はず。然れども、この頃の人名には次に例を示す如く往々佛の名支那の聖賢の名などをとりたるものあるを見れば、

  宮首阿彌陀(日本書紀、孝徳、白雉五年二月)

  島阿彌多  (東大寺文書正倉院文書)

  無量壽  (同)

  文忌寸釋迦(續日本紀、文武、慶雲元年正月)

  衣縫造孔子(同  大寶三年正月)

  阿倍朝臣子路(同 淳仁、天夲寶字八年正月)

漢語に親めりしさま想像にあまりありといふべし。

 かくて大化の改新以後漢文日本の公式の文となり、大學國學にて教ふる所はすべて漢籍にして、佛教の盛んに講読する所また漢文なるが爲にその信者の讀誦する所また漢語漢文ならざるは無かりしならむ。かくの如くにして純粹なる國語を以てよむを常規とせる和歌にさへこの漢語梵語の混交せるを見る。萬葉集の中にある次の歌どもを見よ。

(中略)

  無何有の郷  藐姑射の山   (荘子にある語)

  塔  布施  力士舞  餓鬼  法師  僧  檀越  波羅門  重(拂教の語)

等の語が萬葉集の中にうたはれてあるを見る。

 又續日本紀に載せられたる宣命國語を用ゐて宣せらるゝを本體とするものなるが、その一部には全く漢文なるあり、それは今姑く別として、その國語のみを用ゐたる都分にも

  最勝王經  不可思議威神の力

 、盧舎那佛  觀世昔菩薩  護法梵王  帝釋  孝義  力田  禮  樂  仁孝

  四大天王  菩提の心  菩薩  悔過  百足の蟲

の如き漢語の混入せるを亮る。これらを以て見れば、奈良朝に於いては既に漢語が頗る多く國語の中に入り込みありしことを想像しうべく、ことに

  男餓鬼  女餓鬼  力士舞

などの如き國語との合成語の行はれしを見れば、これが、頗る深く國語化せしものなるを見るべきなり。

 かくてこの頃には年號天皇の尊號又は官職の名目、又法制上の語に漢語を用ゐるもの少からざ

りしものと考へらるゝが、この勢は平安朝に入りてはます/\盛んになりしものなり。かの宣命の如きも、平安朝に入りては漢語を交ふることいよ/\多くなりたるを見る。かくてその頃に於いては日常に用ゐる漢語の多くなりしことは、竹取物語伊勢物語土佐日記等に於いて既に見るべく、又古今集の歌のうちにも多くあらはれたるを見る。ことに著しきは古今集物名

  くたに(苦丹)  さうび(薔薇)  きちかうの花(桔梗)  しをに(紫苑)

  りうたんの花(龍膽)  けにごし(牽牛子)  びは(枇杷)  はせをば(芭蕉)

など、草木の名の多く漢語にて用ゐられたるを見る。進んでその後の歌集、日記、草子、物語を見れば、その勢ます/\盛んにして、今一々これを説かむは概説にふさはしからずならむ。かくて、この期に至りて、著しく見ゆるは動詞副詞漢語を用ゐたるもの少からざることなり。奈良朝には名詞に用ゐたるはあれど、動詞副詞漢語を用ゐたるは未だ見ざりしなり。又平安朝に至りては漢語音韻の慣習が國語に感化を及ぼして音便といふ現象を呈せしめ、又漢語が、

  シウネ      サウゾ       サウド

  執念く   裝束きて   騒動きて

などの如き用言に化したるものあり。こゝに漢語の或るものが歸化語の域に既に達したるものありしなり。

 平安朝の末期より鎌倉時代にかけては上述の勢ます/\烈しくなり、かの今昔物語の如きは漢語を交ふること甚だ多く、次いでかの和漢混淆文と名づくる文體成立するに至りては漢語の勢力ます/\甚しくなれるが、それと共に純粹の漢語にあらざる漢語を製出するに至りぬ。而してこの時代以後は日常の用語漢語を使用すること更に多くなりぬ。當時の流行語は所謂武家語と稱するものなるが、そのうちより漢語たるものをその例として少しく示さむ。

  合戰  自害  成敗  穩便  不覺  無慚  不當  下知  武者  勘當  郎黨  雜人

などこれなり。又この頃には文章のいひあらはし方にも漢文漢語の影響を及ぼせるものあり。

 さて又平安朝の中頃より宋との私の交通行はれしが、鎌倉時代より室町時代にかけ禪宗の勃興につれて宋元より歸化せる僧徒少ならず、又元明渡航せる僧も多かりしより自然に當時の支那語を傳ふることゝなり、その所依たる禪宗が當時有力なる武家社會に行はるゝにつれて當時のその支那字音支那語も亦多少行はるゝに至りぬ。即ち

  アングウ   アンザイ   アンギヤ   アンコ      カンキン   アンズ    ギンナン   フシン   フトン   ノンキ

  行宮  行在  行脚  行火(アンカ)看經  杏子  銀杏  普請  蒲團  暖氣

  ノンレン    リン    マンヂウ

  暖簾  鈴  饅頭

の如きこれなり。これらを或は唐音と稱し、又は宋音なりともいへり。近世の明清の語を傳へたるものも亦唐音と稱へらるゝことあり。たとへば、

  ビン    リヤン   リン

  瓶  兩  鈴

などの如きこれなり。

 江戸時代に至りての漢學の奬勵は漢文漢語の勢力をます/\盛んにし、漢文はなほ國家公式の文として用ゐられ、學者名づけらるゝものは皆漢文を用ゐて、公式の著述をなしたれば、その影響は國語界にも及び、漢詩文的の熟語の著しく日用の言語文章に混入せるを見る。而してこの傾向は明治維新以後ます/\甚しくなれるを見る。これその當時政府の要路に立つに至りし所謂元勳と稱せられたる人物は皆漢學書生の成りしものなれば、その素養とする所を以て直ちに天下に行ひしが故に、法令布達皆かたくるしき漢語を以て充さるゝに至りしなり。

 日本製の漢語平安朝の末頃よりその兆をあらはし、漸次に行はれ來りしが、江戸時代の中期以後漢語崇拜熱の爲に、國語漢字にてかきたるものを音讀して金頭魚《キントウギヨ》(かながしら)などといひて得意顏したる痴者《シレモノ》の少からざりし時代となりぬ。かくて、江戸時代の末期に歐米の語を飜譯する場合に例としてこれを漢語の形に譯出せしが爲に、そこに日本製漢語は遽かにその數をまし、爾來飜譯といへば、漢語形式を用ゐること、不文の規則の如くになり、明治以後に致りては、それら學術法制等に用ゐる新語はそれが飜譯語たると否とを問はず、盛んに漢語の形をなせるものとするに至りて、その勢滔々として今日に到りても止まるべくもあらず。かくて漢文の素養もなき一知半解の淺人が傍若無人に甚しき不都合なる似而非《えせ》漢語を盛んに製造しつゝあるを見る。たとへば、近時遽かに新聞紙上に見はじめたる「警察署に連行す」「某大學が惜敗したり」といふが如き、又鐵道の各驛に見る「改札」の如き、道理もなく、條理も立たず、若し正しき條理をたどりて解釋せばかへりて世の物笑となるべきが如くなれるまで、妄りなる語の跋扈するあさましき世となりぬ。

 以上は極めて概略の觀察なるが、吾人はこれによりても、また、研究上の問題を如何に處理すべきかの大體の方針を立つることをうべし。即ちこの研究につき吾人は先づ二の大別を立つべきを見る。

 一 は支那にて成立せる本來の漢語を基としての種々の方面よりの考察

 二 は漢語によりて與へられたる影響として起りたる國語の種々の方面の考察

この第二の場合は種々の姿を呈してあらはるゝものと見らるゝが、それらの詳細は後に至りて説く所あらむとす。<<