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2007-08-28

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第三講

叙事文

 叙事文とは、見たり、聞いたりした事柄を書きあらはす事で、即ち物の状態を書く事である。櫻の事を説明してみると、櫻の花が開いたと云へば、これ見た事をかきしるしたもので、これが叙事文である。若し、櫻の花は綺麗であると云へば、これは感じたる事を書いたものであるから、抒情文である。若し又、櫻の花は、日本の名花であって、そのぱっと咲いてぱっと散る潔ぎさまは、日本人の性情と一致する所があると云へば、これ物の道理を云ひあらはしたものであるから、議論文である。長い文章になると議論文の中に、抒情も叙事もあり、叙事文の中に、議論も抒情もあり、抒情文の中に、議論も叙事もある。文章を叙事、抒情、議論の三種に分つは大體の別方である。

 この三種の文章の中で、何がむづかしいかと言へば、叙事文である。叙事文が達者に書けさへすれば、抒情文も議論文も自然とかけるものである。で、實際に引きあてゝ、どんな物が叙事文かと云ふに、歴史も、傳記も、科學の説明も、報告も、新聞の雑報も皆それである。その他、紀行文も、日記文もその大部分は叙事に属するものである。

 この叙事文を書くには、見たり、聞いたりした事を書くものであるから普通の文字が書ける者なら、何人にでも出来るものであるが、それが文章になった後に、ある人の文章は名文となり、ある人の文章は、拙劣見るに堪へないものとなるのは、どう云ふ譯かと云ふに、名文を書くものは、その筆にする事柄に對する知識と趣味がありあまってゐる爲に、云ふ事に言葉の足りない所もなければ、無駄な事も云ってないので、自然と立派な文章になったもので、拙劣な文章を書くものは、その反對に、言葉が足らず、言はなくても好い事を長たらしく言った爲に、悪文になったものである。

 叙事文を書かうとするものは、學問をして知識をひろめる一方で、世の中を見て、人情風俗を知り、常識を養ひ、観察眼を鋭くし、その上いろいろの趣味がなければならぬ。知識がなければ、哲學上科學上の理窟が分らないから、その人の書くものは、浅薄で、眞實の事が書けない。傳記を書くにしても、人の浮説を信じて、忠臣を賊臣とあやまり、悪人を善人とし、枯尾花を幽霊とするの滑稽に陥る。世間を知らす人情風俗を知らなければ、人の心中がわからす、唯外形のみを見て、妄りに判断を下して、事の眞相をあやまる事が多い。常識がなければ、偏狭で、物の反面が見えて、全體を傳ふることが出来ない。観察眼がにぶければ、事物の奥底を知る事が出来ないので、事の眞相に觸れない。今の新聞の雑報に、誤りの多いはこれが爲めである。物に對する趣味がなければ、文章の題材の範圍が狭くなる、即ち野球に趣味のないものは、野球の事が書けす、短艇に趣味のないものは、短艇の事は書けないやうなものである。

 この事は、一朝一夕に養成が出来るものでないが、文章を書かうと思ふ程のものは、之を養ふやうに心がけねばならぬ。