国語史資料の連関

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2005-03-13

[]芳賀矢一徳川時代に於ける国学の趨勢」 00:23 芳賀矢一「徳川時代に於ける国学の趨勢」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 芳賀矢一「徳川時代に於ける国学の趨勢」 - 国語史資料の連関 芳賀矢一「徳川時代に於ける国学の趨勢」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 国学といふことは、勿論古い時代にはないことでありまして、徳川時代から始まった語でありますが、この徳川時代は御存じの通り漢学が非常に盛な時代でありまして、儒教と云ふものが全く教育の中心になって居る。文学と云へば、漢文文章を作り、詩を作ると云ふことが殆と学者の仕事になって居りました。そこに一つの国学と云ふものが起って参りまして、それが漢学と云ふものと対抗してさうして非常に盛な勢となり、終にそれが此王政維新の大業にも影響を与へたと云ふことになりました。徳川時代国学者の致しました仕事を見ると、実に我々は感謝しなければならぬ事を痛切に感ずるのであります。又この国学の精神と云ふものは、将来に於ても益々発達させて行かなければならぬ事と考へるのであります。此国学がどうしておこって来たかと申しますのには、先づこの国民が自分の国と云ふことを自覚して来たと云ふことから起って来て居るのであります。所謂倭冦といって、頻りに支那や朝鮮の沿岸を荒すと云ふやうな工合に、日本人が外国へ出掛けて行ったことは桃太郎が鬼ヶ島に渡って行くといふやうなお伽噺、又御曹司島渡りなど云ふ小説にも表はれて居る通りでありまして、随分と遠征を試み冒険をやったのでありますが、外国との交通も段々戦国時代になっては起って来ました。西洋の文明と日本の文明と相接近する時期になって来て、単に支那朝鮮のみならず、西洋の船も日本に来ると云ふことになりました。そこで所謂鉄砲が渡って来るとか、西洋風の鎧が多少日本に這入って来るとか、精神上から申しますならば、耶蘇教のやうなものも段々這入って、それが日本国に普及するやうになって、東西文明が接触する時代になった。さうなりますと自然に自分の国、外国に対して日本の国と云ふ自覚心が起って来るのであります。

 そこで徳川幕府になりましてからは、所謂鎖国主義を執って、耶蘇教撲滅と云ふことに致し、さうして儒教を大に起して、日本の国を儒教支配しようと云ふ方針になったのであります。そこで儒教が段々発達し、太平も打続いたから、段々書物を読む時代になりまして、即ち学問が復古する時代になりました。さて一方に国民の白覚心と云ふものが益々発達して来ますと、つまり支那も一つの国であるから、矢張り日本では日本特有の考を有たなければならぬ日本の国にも太古以来自づから確乎たる一つの教訓があるのである、日本は何もかも支那のお世話で開けたのではない。又仏教のお世話にばかりなって居るわけでは無い。日本人には日本人の道がある。日本国民は日本国の古い精神を明かにしなければならぬと云ふやうな考が、段々と起って来たのであります。

 それには日本の古い国史を研究しなければならぬ。さうして又一つは神道と云ふものを育てなけれぱならぬ。そこで初めの中は、仏教の学問をした者が仏教に明るい眼からしてその知識を基本として日本の国体を説いて、神道を立てゝ行かうと云ふ考を有った人もある。又儒者儒者の精神からして、日本を説明するに応用しようと云ふ考を起すに至った。林羅山と云ふやうな人は、朱子学派の大儒でありますが、既に日本は神国なりと言って神仏混淆、と云ふやうなことに就ては、多少反対の意見を漏して居る。本朝神社考などを書いて神社の事を研究して居るのでも分ります。顧みれば鎌倉足利時代には学者は坊主に限る事のやうでしたが、徳川になって、儒教が起ってからは、儒者と云ふ一つの階級が社会の上に現はれて、儒学で以て立つと云ふ人が追々出来て来た。さうして是まで学問と云へば或家の専有物で、何事も口受口伝でやって行くと云ふやうな弊風があったが、さう云ふ事に反抗することが儒者の側から起って来た。即ち昔から立て来た権威と云ふものを認めない。学問は私すべきものでない。先生の説であればとて誤があれば改めて行かなければならぬ、是までの口受口伝などゝ云ふことは取るに足らぬものであると云ふ気風が儒学者の中にも起って来た。そこで各々一家の言を立てゝ行かうと云ふ風になりました。

 歌の方から申しましても、以前はやはり秘事口伝と云ふやうなことを言って、極つまらぬことを大事さうにして子弟に伝へて行くと云ふ風で学問を広く人に知らせるのではなくして、少数の人に伝へると云ふ弊があって、歌学は益々衰へて行くばかりであった。所が儒者の方からして既にさうであると同じく、歌の研究の上からも自由に大胆に告白する人があらはれた、時代精神がそこにもあらはれました。

 歌などを研究する人々は一層日本と云ふ事に考へ及し、儒者が古人の説を相手にしないと云ふ見識と同じく、昔からの古伝説漢学の方からの説明を多く加へて居るのは面白くないと云ふ大きな反抗心を起して来ました。儒者の説を混へたり仏教の説を混へたりしたのは面白くない、純粋に日本の事を研究しようと、斯う云ふ考の次ぎに起って来るのは当然の事であります。かの山崎闍斎が坊主を罷めて儒者になって儒者から又神道を唱えたと云ふやうなのは一身を以て寔に能く時代精神を表はしたものです。当時水戸の義公大日本史を編纂しようと云ふ考も、此国民の白覚の声の外はありません。其の外伊勢の外宮の学者、例へば度会延佳と云ふ人、又ト部の神道吉川惟足と云ふやうな人々の神道は皆国民の自覚の声が表はれて来たのであります。又鴨祐之などが、日本逸史等を拵へて歴史上の研究に資するとか、松下見林と云ふ人が、異称日本伝を拵へるとか、前王廟陵記を拵へるとか云ふ考も皆同じやうなもので、又神道なり国史なりに向って、研究を進めて行く国民の自覚です。

 松下見林などは昔日本には紀伝道と云って、支那の歴史を研究した道があった。然るに日本の紀伝道がないと云ふので、是がなくてはならぬと唱へて居った。併し是等の人々のすることはつまり漢学者や、医者や、仏教に這入った人がするので、古い伝説を其のまゝ襲うて行くことには反対しても、又自分の独断と云ふことは免れない。自分で説を立てゝ何か日本に説明を与へたいと云ふ考から、儒家又は仏家の説を以て説いて行くのであるから、幾らか仮説が混って来るのであります。それではどうも面白くない。幾ら日本の事を説いても矢張りそこには支那の学問が混って来る、仏教の説が混って来ると云ふのでは面白くないと、斯う云ふやうな一つの考が当然起って来る訳であります。かの山崎闇斎の如き者も、度会延佳に学び、それからト部の吉川惟足に学んだ、伊勢流とト部流の両方を学んでさうして垂加流の神道を起して来たのであります。それらは皆多少僻説を混へた説であるが、それは総て是までの権力と云ふものを打ち棄てゝ来る運動……自覚心と云ふことの運動に於ての初めての現象であって、さう云ふ順序を経なければならなかったでありませうが、一旦はさう云ふものが起って来たのであります。さうなって来るともう一層進んで所謂純粋な独断の這入らない学問が起つて来なければならぬ順序になって来ました。

 それはどう云ふ形で起って来たかと云ふと、矢張り歌の方の側から起って来ました。即ち歌道が秘事口伝を第一とする有様であったに依って、自然所謂二条家冷泉家などの堂上家に総て権力を握られて居ったのに対して、その学問の根拠には間違がある。寧ろそれを正さなければならない。定家仮名遣と云ふものを人が信仰して居るけれども、少しも学問の根拠がない。定家を排斥する者は罰が当ると云ふことは言はれて居ったが、これは寔に根拠のない話であると、斯う云ふ風の側からして、戸田茂睡の如きは、歌の事に就て、所謂革命の旗を飜へして居る。それと同じやうに下河辺長流と云ふ人もあり、契沖阿闍梨と云ふ人も出て来て、万葉集などを研究して是まで学問のない時代に、唯伝授々々と言って居ったのは、浅はかな事であると云ふことが段々分って来まして、是等の先生は、自分で研究を尽して進むべしと云ふ考で、是までの二条家冷泉家の説を打破らうとしたのであります。契沖は坊さまでありまするし、少しも世間に関係がないから、尚更白由白在に学問のみを研究することが出来た。その学問上の根拠は、どこにあるかと云へば、先生の伝授にあるのではなくして、自分の研究にある。日本の旧い書物が其証拠で、仮名遣の中点はどこにあるかと云ふと、万葉集が証拠であると云ふことで、初めて引っくり返して、新仮名遣を唱へたのであります。

 つまり自分の独断と云ふことが少しも這入らない。何でも旧い書物に拠り、所謂帰納法で結果は斯うなると云ふことを考証に求めてやるのである。文献に徴して証拠立をするのである。契沖の百入一首改観抄と云ふやうな書物は、是までの百人一首と違って万葉集には斯うあると言って、一々其の考証を引いて説明して居る。北村季吟の如きは、成程博覧な人であって、此の時代に国学を広げた功労はありますけれども、併しながら新しい研究法が少しもない。季吟の拵へた、湖月抄や、春曙抄は、今でも便利として居るけれども、あの研究法は、昔から伝へた説を公にしただけのものである。新しい研究法は少しも無い。契沖は新しい研究法によって、総べて自分の釈解は昔からの人の説に依らないで、旧い書物を証拠にして議論して行ったのである。それ故堂上家、公家様の是まで伝へて来た所のことに就ては、良い事があれば之を採ることは勿論だが、悪い事があれば飽まで採らないのであります。此のやり方は極めて学術的のやり方でありまして、国学の基礎と云ふものは即ち此に成立ったのであります。それ故宣長の如き人も契沖国学の親であると歎称して居ます。契沖も明治になってから贈位にも預った。坊さんでありながら贈位になると云ふことは珍らしいことであります。

 さういふ風にして、日本の旧い事を研究するのには、どうしても日本の旧い文献、旧い文学に徴して、即ち国語、国文を研究して其上に打立てなければならぬと云ふ所謂基礎がこゝに成立った。それ故本居宣長は初めに百人一首改観抄を見てこの新研究法に感心して国学を起す志になった。されば宣長は真淵の門人であるが、間接には契沖の門人といっても宜しい、世を隔てた門人と言っても差支ないと思ふ。ところが此の契沖と殆んど同時代に、さういふ坊さんではなく、京都の稲荷山の神主の家に生れた荷田春満といふ人が居た。此の春満はやはり契沖と同じ方法に依って、広く古文献に徴して日本の国の事を研究しようと、此の人が初めて国学、国の学びといふことを唱へ出した。春満の考では是までの学問は支那人の糟粕を嘗めて居る、或は仏教徒の余瀝を啜って居る。かやうな遣り方では日本国はどうしても分らぬ。是までの神道家と云ふものゝ日本文明を説明するさまは、兎角儒者や仏家の方から採って居るものであって、其の方法では到底日本の国の真相は分らぬと言ったのです。歌と云ふ事よりも、寧ろそれに依って日本の神道を研究し、日本の古道を研究せねばならぬと論じたのであります。だからして此の人を国学の四大人の第一に数へる次第です。斯くて春満は国学校と云ふものを建てゝ、……漢学に対して一の国学校を起さなければ、日本の国学の本当の道は分らぬと云ふことを唱へて、幕府へも其の趣意を建白した。幕府も其意見を多少容れることになった。是に於て民間に起った国学校が、やゝ当路者の視聴を動かすことになって来たのである。

 そこで春満も矢張り契沖と同じく、国語、国文に依って説明すると云ふことになると、どうしても旧い詞を研究しなければならぬ。旧い詞を研究するのには、どうしても日本の古典を読まなければならぬ、即ち万葉集の研究から始めるが宜いと云ふことになる。万葉集は昔の歌集であって沢山な旧い詞が這入って居る。古事記のやうなものを読まうとするには、先づあれを読まなければならぬと云ふことになる。処が此人は惜しいかな国学校を建てるに至らずして、京都で卒ってしまったのであります。其の弟子もかれこれありましたが、中で賀茂真淵遠江国の人でありますが、矢張り神道の家に関係のある人であります。その友達に杉浦国顕と云ふ人がありまして、是が春満の姪を家内にして居る所から、春満が江戸に参る時には杉浦方に宿を取った。その縁故から真淵も遂に春満の門人になって、四五年ばかり春満に就いて学んだのであります。されば真淵は契沖などに依っても利益を得たこともありますが、春満から直接に教を受けたのであります。そこで段々学問が進んで来たので、契沖は僅に二三段の梯を拵へたのに、真淵は早や五六段を拵へたのである。真淵自身も、自分は先輩の学問の上に二三段を拵へたぼかりでまだ十段目には達しないと言って居ます。即ち十分とは思って居らない。併し契沖よりは進んだと云ふことは自覚して居る。宣長は我師を以て契沖に比べれば、契沖の如きは殆んと赤ん坊のやうなものであると言ひました。真淵は契沖に比べれば、宣長の眼から見ると其の位進んで居る。今日万葉集を読んでも、真淵の万葉考は余程進んで居る。処が真淵も古典を研究するには万葉集を読まなければ成らぬと云って、全力を注いで研究したので、万葉考及び別記と云ふ重なる著述と、其余に万葉の考を研究するに就て、冠辞考などゝ云ふやうな寧ろ副産物も出来たのである。勿論、古事記も読みました、祝詞神楽歌催馬楽、並に古今集伊勢物語源氏物語までにも研究を及ぼされました。されば真淵の学問は上古から平安朝までに及ぼしたのでありますけれども、其の重と精神をそゝいだのは奈良朝文学であって、万葉集の研究が其の根本であったのであります。さうして春満と同じ様に支那の影響のない時代に溯らなければならぬと云ふ考でありますから、支那の学問が渡って来て此方のものは排斥する傾を有って居りました。そこで真淵は何事も奈良     、其の以後のものは棄てると云ふことになった。真淵の言に山に入るのには其の入口が大事である。初めは最も広い所からして這入って行かなければならぬと言って居る。後世の錦と云ふものは中古の綾よりもきたない。後世の綾は中古の綾に如かぬ。又中古の綾は上古の賤機に如かぬ、上古の賤機は質朴であるから一番良いと言ふのです。そこで真淵は老子を尊びまして、支那では孔子よりも老子が良いと云ふ説に帰着することになって居る。即ち段々昔に帰って来る……そこで文章も其の意味で作り、歌も其の意味で作ると云ふことに成って居ります。

 此の頃は漢学の方に於てもさう云ふ運動が起って来て居る。それは段々と儒者が出て朱子王陽明の学を唱へて居るが、さう云ふものは宋や明の学者の主義であって、孔子の主義ではないと云ふので先づ伊藤仁斎が古学を唱へて居る。又物徂徠はそれに対抗して、矢張り江戸に於て古文辞学と云ふものを唱へ出しました。文章を作るにも、総ベて秦漢以上の詞だけを用ひて書くと云ふ主張である。真淵は丁度その時代に生れまして、真淵の幼少の頃は物徂徠が盛名を得て居る時代であるから、真淵は恐らくはそこらから何等かの影響を蒙ったらうと思ふ。之を国学者に言はせると嫌がるが、併しそれが有ったと云っても決して疵の附くわけでない。徂徠の門人の慥か南郭かと思ふが、其の門人に渡辺蒙闇と云ふ人があります。是が実に真淵の漢学の先生である。故に漢学の方は徂徠からして孫弟子に当るのであります。だから徂徠古文辞学を以て一世を風靡したと云ふことは、真淵には余ほど大きな影響を与へたかと思ふ。取りも直さず真淵は丁度徂徠のした事を国文でしたのであります。即ち日本の古文辞学と云ふものを唱へ、奈良朝時代以前の詞を以て、日本の文章を作り、歌を作ると云ふことをしたのであります。但し徂徠孔子の像に対して自から東夷人物茂卿と唱へた程で、頗る支那を有難がった者でありますが、さう云ふことは国学と云ふ見識からして真淵は極端に反対して居る。つまり支那から這入って来た事柄を排斥すると云ふことが初めの動機であって、春満以来さうであるけれども……後には何でも支那の事はいけないと云ふことになって、極端に支那の事を排斥することに傾いて居ります。何でも復古的にやらなければ成らぬ、後世から附加したものは総ていかぬと云ふことになって来た。同じく古文辞学であるが、一方は孔子の道に就てゞあり、一方は日本の国家と云ふことの上に就てゞある。一方は孔子に対して東夷人などゝ言ったが、一方は支那の聖人はそもそも偽善者だと論じて居ります。それ故真淵の如き国学の運動は、一方から見れば、漢学の反対として起って来たと言っても宜しい。此の真淵は江戸に出まして、多くの註釈書を出し、且つ其の博識を以て人に教へまして、三十年間も江戸に居って多くの生徒を教へて居りましたが、それは単に註釈をするとか、古い学問をするとか、学者的の仕事ばかりではない、白から歌を作り文を作るの模範を示した。恰も物徂徠が初めて立派な漢文を書いて天下を風靡したと同じやうで、真淵が名声を得たのも、一つは歌文の才が大いに助けて居る。それが評判を高くしたのであります。さうして江戸の花の都に居ったのであるから、国学が益笹間から認められるやうに成って来ました。其功労は余ほど大きなことゝ言はなければなりませぬ。

 江戸には沢山の人があるから、多くの学者がそれに就て学ぶやうになって、欝然として最早漢学に対抗する勢力となって来て、世間でも国学を認める様になって来たと思ひます。併しながら真淵は歎息しました、自分が是だけ研究すると云ふ事は、つまり日本の古い詞を研究して、さうして日本の皇道を明らめると云ふ主義である。然るに我が門人を見ると、多くは歌や文章に力を入れるが、古い皇国の事に力を入れる者が少ないと言って歎息しました。それは恰も自分の娘に沢山芸を仕込んで、嫁にやらうと思ふ時分に、あだし男を拵へて迯げたやうなものであると云ふことを言って居る。真淵の真意とは違ひましたらうが、真淵の歌文の才がそれだけの門人を呼んだので、仕方がありませぬ。彼の村田春海の如き、橘千蔭の如き皆歌文の人であります。又真淵の門人中には大分に奥御殿から女中が来て居ます。是等は皆歌を学ぶと云ふことの為に来たのであらうと思ふが、兎に角歌を学び文を作ると云ふことに就ては、一々論拠のある学者であるから、安心して習へると云ふことになったのが、此の国学の基礎を固めたのであります。

 処が此の真淵の門人中で、田舎に居りました本居宣長は、伊勢国松坂の人で、真淵が松坂にまゐりました時に、初めて会ひまして、さうしてかねがね真淵の書物も読んで感服して居るので、どうか門人になりたいと云ふことを願ひました。其の時真淵は余はもう年取って古典を研究する暇がない。お前は十分に古事記を研究したら宜からうと言はれたので、そこで宣長は謹んで其の教をうけて、三十余年間の苦心を積んで拵へたのが、即ち古事記伝四十五巻である。それはどう云ふ立場から来るかと云ふと、総べて是までの国史日本紀を基礎として居る。日本紀は勅選の国史であるからして、之を確かなものとして取ったのであるが、それは矢張り支那的の頭脳であって、真実には此の古事記が大に尊ぶべきものであると云ふので、此の事は真淵も書意考に論じてあるのであります。

 宣長の時代は、春満の時代から真淵の時代を経ましたから、大層に学術が進んで来まして、平安文学、古い文学書のいろいろの註釈書までが出来た。又其の他の学問の研究も出来た。宣長が一生懸命古事記を研究する間に、其副産物として、詞の玉の緒とか、玉あられとか、万葉集玉の小琴とか、源氏物語玉の小櫛とか云ふやうな風に、つまり六十何種と云ふ著述が出来ましたが、皆それは古事記伝を拵へる為の副産物と云はなければならない。さうして是までの詞を研究して、一々詞の解釈を加へ、国語の性質も多少説いて来ることになった。又文法のやうなこと真淵も少し説き始めて来た。「ア」の段は物の初めの段である。将然の段で「行カン」とか「思ハン」とか云ふは未来のことである、「キ」と「イ」の段は連用語になる形である、「ウ」の段は用言動詞になる形になる、「エ」の段は命令の形であるとか、ボンヤリと文法のことを考へ出すやうになって居たが、宣長になっては詞の玉の緒と云ふものを拵て、所謂かゝり結び?のことを研究致し、これからして詞の活用と云ひまして、日本の動詞の研究なども始めて来るやうになって来ました。そこで先づ宣長に至りまして、徳川時代国学と云ふものは、殆んと九分までの発達を遂げたと云ふやうな形になって来たのであります。先づ一段と大きな発達をしたと言っても宜しいのであります。

 宣長は年七十二で歿しましたが、其の年即ち享和元年に京都へ出て学問を講じたことがあります。其の時は京都の公家が争うて其の講演に侍して、聴聞したと云ふことであります。茲に至っては従来地下の学者と賤められたものが、最早堂上家の学問を圧倒したのであります。其の点に於ては、宣長の得意思ふべしである。又一方に於ては、一体に国学の発達の著しかったと云ふことが分るのである。

 宣長の門人に至りましては、更に非常に広くなった。宣長は江戸に出ませぬけれど、京都附近は固より、全国から名づきを送りまして、門人になった者が頗る多数であった。其の沢山ある門人は様々に分れて来て、詞の研究をする老も出来て来る、又物語の註釈の文学を研究する老も出来て来る、と云ふやうな風になって来たのであります。即ち文学の研究家では藤井高尚とか、田中大秀とか又は語学の研究であれば本居春庭などゝ段々盛んになったと云ふ有様である。一方に於て神道の方の学問と云ふことに就きまして、門人の平田篤胤が大に之を拡張することになった。丁度真淵が唱へまして、日本の国は一番立派な国であると云ひ、其の教へが益発展して宣長に至って更にそれを続いて来て、其の風が何れの学者にも弟子にも同じやうに動いて居るやうであるが、平田に至りましては更に神道の中心、神道の建立者である。古典の研究もあるけれども、神道を創立すると云ふことが平田の立場になって居ります。さうして一切の仏教なり儒教なりを罵倒して、古いものは皆破壊してしまって、さうして神道を立てると云ふ順序になって来たのであります。

 斯う云ふ筋道に所謂古学と云ふものが進んで来まして、しまひほど真神道の建立と云ふことになって来て、其の呼声が国粋主義となり、国家的になりまして……幾らか学術的の態度を離れて来まして、初めは文献に徴してどこまでも日本の書物にあることを標準にして、それでなけれぽならないと、其の規則に依って理腐詰めをして行く気味がありましたけれども、段々日本が第一だと云ふ主張が先になって、後には多少非学術的に陥って来た。平田のやり方は寧ろかうだと云ふことを最初から極めて論じるが、流石博覧な人であるから、何でも直に証拠を出して来る。漢籍は勿論、仏教の書までも引張って来て、いろいろ日本の事を論じて自分の説を確めて行くと云ふ有様で、一方から云へば純粋の学問でなくして、一つの宗教を立てると云ふ風になって来た。同じく歿後の門人でも伴信友などになると、どこまでも考証だけで議論を立てゝ行くので、平田とは違った方面で、これは純学術的であります。

 此程になっては古学派の外にも沢山学者がある。例へば類聚名物考の著者山岡浚明、これも真淵の門に這入ったと云ふことが伝記に載って居る。萩原宗固も春満の感化を受けたとも言ひます。又真淵の枝に出たとも言ひます。併し学問は門人になったの、否ならぬのと云ふことはどうでも宜しい。それだけの学問があって、研究して来れば宜しいのであります。但し間接の影響は、固より何れも受けたものであると言はねばなりませぬ。萩原に学んだ塙保己一、即ち温故堂の先生の如きも、やはり真淵に学びました。此の群書類従の事業は、余程大きな事柄であります。是は単に文学の書物のみならず、法制の書と云ふものは勿論、日本の国と云ふことを知る為に必要なる、あらゆるものを類従して便利を与へると云ふやうな仕事をせられたのである。これは実に大きな仕事である。其の弟子も沢山あって、弟子も亦それぞれ仕事をして居るのであります。これは田舎では出来ぬことで、幕府の力も加はって出来たのであります。

 宣長の少し先輩に谷川士清と云ふ人がありました。是は日本紀通証を書いて居ります。同じやうに国学の研究をして居る人であります。天野遠景なども、国学者と看倣すべきである。又文法の方では、富士谷成章など云ふ天爾遠波の研究をする人が出て居る。皆同じやうに国学で進んで行って居るのであります。

 だから大体国学の形勢を見ますると、先づ初は日本の詞を研究すると云ふことが主眼であって第一に詞を研究しなければ、どうも日本の古い事は分らぬと云ふことからして、先づ国語解釈から出発して居る。さうして其解釈は日本の詞を最も多く集め得た所の万葉集から始めて居る。契沖や真淵が十分に万葉集を研究したのはそれが為です。随って契沖の門人は皆万葉集を研究して居りますし、真淵の門人もそれが多い。古言梯とか続冠辞考とか云ふやうに、詞の研究に尽して居ります。処が宣長時代になると、今度は段々文学に這入って来る。又江戸の方でも、村田春海の門人の清水浜臣岸本由豆流など云ふ人は、古い物語を主として研究しました。加藤千蔭の門人の大石千引が始めて大鏡観短抄を作ったのは、研究が歴史物に進んだのです。それでもまだ軍記物語の方、即ち鎌倉以後までに這入って来ない。

 万葉集から段々と研究を続けて行き、それには仮名遣が一番初めの問題であるが、つゞいて一語一語の問題になる。随って冠辞考、続冠辞考と云ふやうに、次第に詞を調べて行く。これが宣長時代になっては詞の玉緒となり、さうして子供の春庭に至っては、詞の通路詞の八衢となって、所謂日本の動詞の研究が出て来た。又其春庭の門人の義門が出て来て、文法の研究を続けて行くと云ふ訳になって文法の学の進んだのは宣長以後であります。初めは小さな字引が出て居る。古言梯といって揖取魚彦の拵へたやうなものゝ類である。さう云ふものが段々出来て来て、後に大きくなって顕はれた、和訓栞となり、雅言集覧となり、俚言集覧となり、段々と立派なものが出来て来た。

 段々さうなりましたけれども、終ひにはそれだけでは根拠が弱くなって来ますからして、比較研究の方法に依って論断して行かなければ成らぬ事になって来ました。最初は日本の物は何でも一番良い。気候、風土、総て日本のものが一番良いと云ふやうなやふ独断的に言ったものが、真淵宣長あたりには免れないのであるけれども併し平田篤胤に至っては、仏経を引張って説き、漢籍を引張って考証して、其説を証拠立てゝ居ります。万葉集の事を説くにも、支那文字があるから、漢字用法を広く研究してかゝり、漢字の音と義の研究にかゝらなければ、本当の事はわからぬ。狩谷棭斎岡本保孝等は、つまり和漢の比較研究家で、今の木村正辞先生などは、其流義を受けた人であります。漢学の力を以て国語を説いて行くといふ風になりました。中には西洋の学問までも参照することになったのは、鶴峯戊申語学新書となって来て顕はれて居ります。和蘭文法を以て日本の文法を説いたのであります。平田篤胤の著書には、耶蘇のことが度々出て居る。和蘭の事を頻に賞めて居る。仏法を盛んに攻撃する為に、和蘭の方を却って賞めて居る。西洋の学問の地動説も言って居り、ゴツトと云ふことも言って居る位である。さう云ふ風に洋学までも参考して進むと云ふ時勢になって来ました。

 又徳川の初には、極った書物に就いて研究して行ったので、後に至れば至るほど、人の見ない書物を発見して研究して行く。どこにかあるものを掘り出して、出来るだけ調べて行くと云ふ風になった。是れは自然の結果、どうしてもさうなければならぬのであります。どうしても書物が少くては分らぬ、所謂文献がなければ分らぬ。塙保己一先生はそれを広く国民間に知らせようと云ふ経路を立てられた人であります。支那から来る書物も、初は僅かであったが、後には支那と交通が盛んになったので、珍らしい書物が段々来る。これが皆国学の研究の為には良い材料となったのであります。

 又初めは単純な一個人の物好きであったが……契沖の如き人は物好きでやった。歌よみの物好きであったと云ふことが、段々国民を感化する力を有って来て、国家的になってまゐりまして、初めは個人的であったが、後に官費で仕事をすると云ふやうになって参りました。一言すれば全く学者の力に依って.段々世の中を動かして来たのであると思ひます。つまり学問は古きから新しきに移り、粗から精に入り、狭い所から広い所に向って、其の間に前人の積んだ研究を利用して来て、其の誤れるを正し、其の善きを採って、段々積み上げて行って、遂に明治の御世に至ったのであります。其間の時勢はどうであるかと云ふに、外国人の交通が頻繁になって来て、外国船が頻りと日本の近海を脅かし、非常に刺撃を与へるやうになって漢学も同じく国学的になって来た。それで国学者も漢学者も斉しく国家的の考を説いて来る。それが春満よりは真淵に、真淵よりは宣長に、宣長よりは篤胤と、段々盛んに強くなって来た。斯くの如くにして其の国民に及ぼした思想上の感化と云ふものが、終に明治の維新をなす所の大きな原動力になって来たのであります。小さい家の内に這入って研究して居た此の学者の事業が、つまり日本国として今日あらしめた所の大きな原動力となって居るのであります。支那の国が今日の有様となって居るのは、国民を導くと云ふ学者が出来て居ないからであります。日本の国が危い時期に居って、幸運な発達をしたと云ふことは、学者の書斎の内から出て来た著述に依って、それが段々天下に拡められた為であると云ふことは、寔に疑ふべからざることΣ思ひます。そこで明治の一大事業と思ふのは、始めて神仏分離と云ふ事が出来たことで、是は余ほど大事業であると思ふ。上代に仏法が渡って以来、今日までの長い間、神仏合体であった。それが明治になって始て神仏分離することになった。又もう一つは国語漢文との分離であります。昔は文章と云へば漢文でなければならなかった。それが始て国語が独立して、小学校では国語を教へると云ふことになった、それも明治時代の仕事である。思ふに日本の古い所に於ては、支那文学のお蔭を蒙り、印度の文学のお蔭を蒙って今日まで発達して来たが、併し国学者の自覚心の発現は、明治時代になって始て理想の如く行はれ、さうして神仏が始めて分れると云ふことになり、国語が独立して学校の教科書に用ひられると云ふ、此の大きなことは、何に依って来たかと云ふと、総べて国学者のした事業であります。

 契沖仮名遣は、徳川時代に興り、明治の御世には教科書に用ひられると云ふやうな工合になって来ましたが、さう云ふことを考へて見ると、多数の国学者……何百人と云ふ多数の徳川時代国学者は、其の仕事の大小に拘はらず、日本国民の自覚の精神を明らかにしたので精神上に於て、明治の気運と云ふものを作った人々であります。それでありますから、国学者の仕事は、当時に於て非常に進歩した学問であったのであります。然るに今日の国学者は、世間からして何だか迂濶なやうに思はれるのは、それは時代と共に進歩して行かぬからでありませう。今日に於て百年二百年以前の真淵、或は宣長の言はれた通りを墨守して、それより先きに出ないと云ふことになりましたならば、恰も足利時代の口授秘伝を守って居る学者のやうなものであります。それ故に私は今日以後の学者と云ふものは、先哲の仕事は大に尊敬しなければならぬと同時に、良い所は採り、足らざるは増補して、大に進歩して行くと云ふ目的を立てゝ行かなければ成らぬと思ひます。我々今の時代に居るものは、徳川時代よりも、更にもう一歩進んで行くと云ふ心を持てやらなければ、徳川時代国学者に対しても、耻つる所が多からうと思ひます。

          (明治四十五年十二月十二日講演)