国語史資料の連関

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2004-06-04

[]石井研堂明治事物起原』暦日部「幾世期といふ始め」 石井研堂『明治事物起原』暦日部「幾世期といふ始め」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 石井研堂『明治事物起原』暦日部「幾世期といふ始め」 - 国語史資料の連関 石井研堂『明治事物起原』暦日部「幾世期といふ始め」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 幾世期といふ新語は、加藤弘之訳『国法汎論』にあるを始めとすべし、と社友に教へられ、早速同書(明治五年四月の小引あるもの)を見しに、その凡例に、果たして左の数行あり。

「幾世期ト記ス者ハ、世代ヲ著ハス称ニシテ、凡ソ一百年ヲ、一世期ト称ス、故ニ紀元初年ヨリ一百年ニ至ル世代ヲ第一世期ト云ヒ、一百一年ヨリ二百年ニ至ル世代ヲ第二世期ト云フ、他ハ之ニ傚フ」

 同年十二月訳『西洋開化史』の二九頁に、「即ち、第十七世(原註、西洋百年ヲ以テ一世トス、十七世ハ千六百一年ヨリ千七百年中ヲ云フ、後皆是レニ倣フベシ」とあるは、期の字ぬきなり。

 明治六年九月版、橋爪氏の『童蒙手引草』初編下には、「青魚《にしん》を塩にて漬け、樽へ入れ

たくはふることは、ゼエルゴリエー(地名)の漁師キユイヨームブーケルの第十三期に於て発明せり、北アメリカ海岸の、テルヌーフ島に於て、鱈を漁する事は、葡萄牙ポルトガル〕の貴族ガスパル第十六期の始めに於て発明せし所なり」と、世の字を略して、ただ期の字のみなり。

 七年六月版『明六』第十号、中村正直の、西学一斑」に「第十二回百年の問(自註、一千一百一年より、一千二百年に至るまて)」のごとく記せり。明治十四年版、松島剛の『社会平権論』の凡例にも、幾世紀とは云々と、ほとんど『国法汎論』と同文の解ありて、今日に同じ。

 以上いつれも期紀同音、偶合は一奇なり。