2004-05-20
■ [近代語]言文一致論(石井研堂・明治事物起原 第八)
明治十七年十月『東京学士会院雑誌?』第七編の一に収めし、神田孝平の「文章論を読む」一篇は、西村茂樹の、文章論に対する異見なるが、本邦の標準は、言語文章を一致するにあるを痛論せるものにて、いはゆる言文一致の首唱なり。
正木直彦?の『回顧録』に、直彦、言文一致を主唱せる懸賞論にて、明治二十年二月、一等に当選し、森文部大臣?より、賞金四十円を下賜さる。それより、雑誌『いらつめ?』を発行することとなり、山田武太郎すなはち美妙斎に、小説を書かせ、武田安之助?を発行人として、世に出し、一木喜徳郎・岡田良平等に頼んで、論文を書いてもらつた、といふ。
『現今名家記者列伝』は、明治二十二年六月版、大屋某の著なり。山田武太郎伝の冒頭に、「我邦に於て、初めて言文一致体の文章を創め、嶄然一機軸を出して以て、二十世紀否十九世紀文章家の為めに、此の一致体なる模範を与へんとする者は、美妙斎主人山田武太郎其人なり云々」。
山田武太郎は、美妙斎と号し、明治元年東京に生まれ、大学予備門を中途退学、硯友社員として、始めて文学に遊び、『女学雑誌』『以良津女』を発行し、二十一年、中根香亭とともに、金港堂の小説雑誌『都の花?』の編輯を主宰して、おほいに名声を揚ぐ。
美妙斎が、言文一致体にて売り出せしころ、その小説を書くや、行文中、盛んに英語の符標を交じへ、読者をして|や?や!やに食傷せしめき。しかし言文一致の開山たる栄誉は、つひに美妙斎の専有するところとなれり。
言文一致小説 流寄
正格に出来ず言文一致と出