国語史資料の連関

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2004-05-19

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 今日にては、本邦の文芸、美術、その他を学習する欧米人は、枡で量るほど沢山あらうが、外国崇拝熱の高かりし明治の初期にありては、これを学習する者などは、寥々たるものなりし。

 本邦の古代文学の研究家として、まつ第一指を屈せられるは、英人チエンバレンにて、その造詣の深かりしこと、ただに外人ばかりでなく、邦人をも、その後へに瞠若せしむるものあり。

 氏は、嘉永三年の生まれにて、明治六年五月二十九日、二十四歳にて来朝せり。旧浜松藩士荒木氏について、古今集等を学び、鈴木庸正?氏に、万葉集枕草子等を教はり、明治十三年に『日本の上代詩歌』万葉、古今、謡曲等、十六年に『英訳古事記?』、二十年に、文部省の命にて『日本小文典』、二十三年に『日本の事物?』を著はせり。外人に、日本の事情を知らしめるに、いづれも有益の著書ならぬはなし。

 同氏は、雅号を王堂といひ、邦人の歌集『明治歌集』等の中に、ときどきその作品を発見す。左はその片鱗なり。

    明治九年七月、吉野山に登りて、花のかたおしたる

    果物をもてきて、橘とせ女子刀自〔ママ〕に送るとて、

                        英人 王堂

  君がため咲て残れる三よしのゝ吉野の山の花そこの花

    野萩

  松虫の声せざりせば秋の夜は誰か野に出てゝ萩を見ましや

    宮島に詣て

  世にたぐひ波の上にも宮柱立てゝ尊き神のみやしろ

 氏は昭和十年二月十五日、ゼネバのレーコン湖畔リツチモンドホテルにて死去せりとぞ、行年八十六歳。