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藤岡作太郎『国文学全史平安朝篇』「伊勢物語」(抄)

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 議論はしばらく措きて、更に伊勢物語を一読すれば、その文のいかに簡潔にして質素なるよ。平安朝文体は、貫之の頃より、漸く修飾多く、繊麗にして絢爛ならんことをのみ務めたるが、竹取物語伊勢物語とはこの弊なく、却って簡素を主とすれば、土佐日記より古かるべし。而して簡素なる点においては、伊勢のかた竹取よりもまさりたれど、その書の種類の異なるより、文章もおのずから異ならざるべからざれば、強ち伊勢竹取より古しとも定めがたく、概するに二者ともに延喜以前のものなるべし。果してしからば、伊勢物語の作られたるは、大やうは業平の時代なり。而してその歌は概ね業平の詠にして、伝へて在五中将日記ともいへば、これを業平とせんこと、当らずといへども遠からざるべし。

 もとより文体の異同は、作者の異同により、これを以て時代の前後を判じやすからずといへども、大体の区別はまた時代によりて識別せられずんばあらず。奈良朝までは歌文ともに極めて簡素なり。祝詞宣命古事記の文、もしくは長歌の如き、脈絡長く続けたるもありといへども、その句法は甚だ単純なり。万葉集の歌には、短歌も二三節に断れたるもの多し。されば平安初期の散文は、この風を受けて、文章極めて短く、きれ%\に断れて、いふところも甚だ簡短なりしを、貫之以来、やうやく思想と文章と共に複雑に、特に女性の文に至りては、優長に流れたり。竹取物語の文に曰く、

翁、うれしくものたまふものかなといふ。翁年七十に余りぬ、今日とも明日とも知らず。この世の人は、男は女に合ふことをす、女は男に合ふことをす。その後なん門も広くなり侍る。いかでかさることなくてはおはしまさん。かぐや姫のいはく、なでふさることか為はべらんといへば、云々

 伊勢物語に曰く、

昔、わかき男けしうはあらぬ女を思ひけり。さかしらする親ありて、おもひもぞつくとて、この女を外へ逐ひやらんとす。さこそいへ、まだ逐ひやらず。人の子なれば、心の勢なくて、得留めず、女も賤しければ、すまふ力なし。さる間におもひはいやまさりにまさる。にはかに親この女を逐ひ棄つ。男血の涙を流せども留むるよしなし、率て出でていぬ。云々

 その文の簡潔質素なる、これを以てその一端を知るべし。そも/\二書の文は、これを修飾すべき形容詞副詞も多からず、接続詞も少く、奈良朝までに多く用いたる「こゝに」、「こゝをもて」、「故《かれ》」、「又《また》」などは稀になりゆきて、「さて」などの簡単なるものあるのみ。弖爾波はもとより奈良朝よりも数多く、使用も自在になりたれど、なほ延喜以後の如く饒多ならず、文脈の理路に関するものはもとよりこれあれども、文勢の弛張に関するは甚だ少し。「なん」最も多く、「ぞ」も「こそ」もあれど、土佐日記の多きに比すべくもあらず。

 過去の助動詞の「き」(し、しか)は伊勢物語に用ひず、古今集和歌の端書もしかり、竹取物語草紙地には「けり」(ける、けれ)を用い、対話には「き」を用ふ。要するに伊勢の文は簡古を以てすぐれたるもの、その内容も併せて単純に、痛切なる感情を直白して飾らず。敢て竹取の如く、外国文学の影響あるにあらず、強ひてこれを求むれば、その歌に人生を朝露とはかなみ、落花と惜み、もしくは鶏卵《とりのこ》を十づゝ十は重ぬともといひ、行く水に数かくよりもといへるが如き比喩を用ふることにて、これらは文選等に得たるものといはんか。

 伊勢物語は、記事の神異なること、竹取物語に等しきものあるにあらず、結構の整美なること、源氏物語の類にもあらず、和歌を主眼として、その前後の始末をしるしたるものにて、或はこれを以て一の歌集に擬するものあれども、それは穏かならず。その文は歌の小序たるに止まらずして、別に趣味饒多なる談柄を添へ、歌文相待って、その妙いふべからず。毎篇個々独立して、組織の聯絡なしといへども、なほ多情多涙なる主人公の性格は前後を一貫して、片々の珠を繋ぐ糸となる。直ちに人性の奥に突入して、虚飾なく、余談なく、真情流露して、人の肺腑に入るもの、これをこの物語の長所とす。

 竹取物語の条において述べたるが如く、わが国古代の文学には滑稽の分子多く、平安第二期までは殊にこの傾向を帯びて、沈鬱悲痛の趣少なし。記紀の歌については一言せり、万葉集巻十六また諧謔の詠多し。竹取物語も前陳の如く、古今集には俳諧の一体あり。土佐日記は屡々滑稽の言を弄し、落窪物語には可笑のことわけて多し。伊勢物語また時に滑稽の事柄なきにあらずといへども、こはわけて挙ぐべきほどにもあらず。たゞ著者がその和歌を詠ぜし由来を記するに当りて、機智を弄し、別に仮設の譚を設けて、強ひて実際に違はしめ、読者をして覚えず案を拍ちて呵々大笑せしむるもの、これまた一種の滑稽にして、これをこの物語の一の特性とす。たとへば第五十段の歌、

   わがうへに露ぞおくなる天の川とわたる船の櫂のしづくか

とあるは、古今集にも出でてその実は七夕の夜、衣の袖の冷やかなるに、天を眺めての歌なるべし。しかるを物語には、「かくて物いたう病みて死にいりたりければ、面に水灌ぎなどして、息出でて」と作りなせり。次の段に、

   五月まつ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖のかぞする

とあるも、古今集に出で、まことは庭の面の花橘の追風に懐旧の情を述べたる歌なるべきを、物語には、とりて一個の小話に編みたり。また第八十二段の歌、

   あかなくにまだきも月の隠るゝか山の端にげて入れずもあらなむ

といふは、物語にも、古今集にも、惟喬親王?の退座を惜み、入る月に託してこれを留むるものとす。されどその実は単に月を惜しめる詠にほかならざるを、寓意あるものとせるは、例の伊勢物語の作意に出でたるを妄信し、これによりて、古今集の小序をも改めたるなりとは、香川景樹の弁ずるところなり。

 かくして伊勢物語には、和歌とこれを作れる事情とを事実のまゝに記せるところもあり、ことさらに事情を捏造して、興味を添へたるところもありて、後世より弁じ易からず。たゞにこれのみならず、詠歌は業平の歌もとより多しといへども、他の万葉集その他に出でたる歌をも取り来りて、主人公すなはち業平の詠とす。これを取れるや、ほとんどもとのまゝなるもあり、少しく変更を試みたるもあり、また二首を一首に調合したるもあり、放胆洒落、彼我の別を没したるは、作者が興に乗じ筆に任せて揮灑したるに因る。これによりてすでに評者を迷はしむるに足るを、なほ後人がその後の歌を〓入せるあり、真偽混交して、以て区々の論を起さしむ。難いかな、玉石を識別すること。

 しかれどもなお更に伊勢物語を熟読せよ。その文の、詞簡にして意幽に、感懐の痛切なること、業平の歌とその軌を同じくするを見れば、この一篇をまた在五の作と推すも、蓋し大過なかるべし。嗚呼、業平の長所はすなはち短所なり。感情の横溢するに任せて、想を練らず、読はを琢かず、真率に過ぎて、時には児童の言の如くなるもあり。惜しいかな、天才は刻苦経営の功を積みがたく、わずかに真理の一面を発揮して止むもの多し、業平もこの弊に陥りて、ついに後進貫之をして別に大名を揚げしむ。さはいへ在五中将の名の永く後世に喧伝して朽ちざることを思へば、業平もまた偉人なりといふべし。

 而してその名の後世に喧伝するは、その歌のすぐれたるにもよるべしといへども、主として伊勢物語一篇の存するによらずんばあらず。この一篇は伝はりて後の国文の模範となりぬ。源氏物語の如き大著もまたこれに得るところありしがごとし。業平が九十九髪の媼を愛することを記して「世の中の例として、思ひおもはぬ人もあるを、この人はそのけぢめ見せぬ心なんありける」といへるは、やがて転じて光源氏の品性と化生したるものにあらずや。かくの如く後世に影響せしことを思ふに、平安朝の半ばになり末に移るに従ひて、風俗益々軽靡に流れ、和歌も恋の歌のみ尚び用いらるゝに至りしが如き、業平もまたその責に任ぜざるべからざるか。


http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/miseiri/hujioka_kokubungakuzensi.pdf