2002-07-09
■ [東雅]東雅総論(8)
我師なりし人の教へられしは。凡経書の正義の如きは。迂闊の言也と思ふ事多かり。後に説者の解釈せし所の理致。通暢なる如きは。恐らくは其本旨にあらじと云ひたまひたりき。我国古今の言の義を尋ぬるに及ぴて。思ひ合せぬる事ども少なからず。又のたましひは。我年十二三の時に。貞徳のいひし事あるなり。其幼き比ほひまでは。京の人のものいひ。今の如くにはあらず。今の人のいふ所は多くは尾張の国の方言相雑れる也。これは信長秀吉の二代うちつゞきて。天下の事しり給ひしによれるなり。又近き程は三河の国の方言の移り来れるなりと。云しとの給ひし也。此事によりて思ふに。貞徳の幼き比ほひの京の人のことばといふも。またふるきむかしの京の人いひし所のみにもあらじ。足利殿の代の程。東国の方言相雑はらぬ事をも得べからず。すぺて古今の言。其代々の俗尚によりて。移りかはれる事。また皆これらの事の如くなるぺし。
白石先生紳書