国語史資料の連関

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1902-09-02

堺利彦「今の女子教育の弊」 堺利彦「今の女子教育の弊」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 堺利彦「今の女子教育の弊」 - 国語史資料の連関 堺利彦「今の女子教育の弊」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 近来女子教育のはなはだ盛んなるは吾人の深く喜ぶところで、なおこの上にも大いなる進歩あれかしとこそ祈る次第であるが、さりとてはまた片腹いたき多くの弊害が認められる。その第一は、今の女子教育の貴族的にしてかつ保守的なることである。

 元来、日本歴史における女子教育は、その源を宮殿の間に発しているので、貴族的の色彩を帯びるは実にやむをえぬことでもあろう。すでに貴族的であるからは保守的となるのもまた実にやむをえぬことでもあろう。しかしながら、今の女子教育は広く平民の間を流れるもので、決してお乳母日がら傘のお姫様ばかりを相手にするものではなく、主として水くみままたきの細君を作る考えでなければならぬ。

 しかるに、今の平民の娘がはかまをはいて、世にえび茶式部と呼ばれるのはなにゆえであるか。紫式部清少納言が彼らの理想であるからではないか。紫式部清少納言によって代表せられるその殿上の女房たちに必要であった学芸を、そのまま今の平民の娘に必要な学芸としているからではないか。いわく国文学、いわく古文法、いわく和歌。こんなものが平民の細君として何の役に立つであろうか。

 吾人は試みにここに『女学世界』の一巻を取って見た。博文館雑誌は最もよく多数凡俗の趣味意向を示しているからである。巻頭第一には多田親愛先生筆と題した消息文の石版刷りがある。すなわち左のごとし。

久々御物遠に打すき御なつかしく存〓、さ候えは先もし御約束の伊勢ものかたり拝借いたしたく使にて申上〓、苦しからす思召候はゝ此ものへ御渡し遣はされ可被下候返上のせつは持参御礼申上候

                     かしこ

 伊勢物語を借りるということがすでにえび茶式部たるゆえんである。次に「御渡し遣はされ可被下」などという重複な敬語はとうてい平民の舌で言える言葉ではない。それからまた、約束した本を貸すのに「苦しからず思召す」も召さぬもあったものではない。その外、変体がなの多いこと、ニゴリ点の無いこと、〓の並んであること等、何ぞその保守的なるや。もし「かしこ」の「こ」の字が「く」の字になっていたら、さだめしやかましいことであろう。第二には坂正臣(さかまさおみ)先生筆と題した和歌の石版刷り万葉仮名だくさんで、我々無学者にはほとんど読めぬくらいである。第三には野口小蘋(のぐちしようひん)女史筆とした「渓澗春蘭」の図「枯木竹石」の図などがある。シナの仙人ではあるまいし、日本の平民の細君がこんな絵をかいて何にするであろうか。

 一例かくのごとし。彼らおもえらく、女子は優にやさしからざるべからず、ゆえにかくのごとく教育せざるべからずと。しこうしてその実彼らは浮華、軽薄、虚飾、柔弱等の諸徳を教えているのである。教うる者、教えらるる者、共にあわれむべきかな。

『万朝報』(明治三五、九、二)

堺利彦全集』(法律文化社)第一巻 pp.203-4