2018-04-05
■ [ここから広がった]【忍者】(足立巻一『立川文庫の英雄たち』)
すでに別に書いたことだけれど、忍者という言い方が今日のように流布したのは、戦後、それも昭和三十年代以後のことにすぎない。
正確にいえば、昭和三十一年『週刊新潮』の創刊とともに連載された五味康祐の小説『柳生武芸帳』が忍者の語を用い、幕府大目付柳生家が忍者の頭目であったと新解釈する物語を展開させ、同年『東京新聞』連載の柴田錬三郎『剣は知っていた』も風の猿彦という忍者を活躍させた。ついで山田風太郎『甲賀忍法帖』や司馬遼太郎『梟の城』でも忍者の語がもっぼら用いられ、この間『柳生武芸帳』の映画化、テレビ映画『隠密剣士』の放映があり、さらに白土三平『忍者武芸帳』、横山光輝『伊賀の影丸』などの劇画により、忍者という名詞は広く一般化したのである。
文庫 p.276-277
2018-04-04
■ [方言意識史]南部弁と津軽弁(井伏鱒二「久慈街道」)
中里さんの話では、南部領には子供の遊戲のうち、「泥棒ごつこ」といふのがあるさうだ。巡査が泥棒をつかまへて、訊問したり後手に縛つたりする眞似をする。その揚合、巡査の役をつとめる子供は必ず津輕辯で喋り、泥棒の役をつとめる子供は南部辯で喋る。これには理由がある。南部藩の者と津輕藩の者は、藩主、侍、百姓、町人に至るまで、昔からお互に反目してゐたといふ。現在でもお互に打ちとけない。だから南部領には、たいてい津輕領出身の巡査を差向けてよこすことになつてゐる。巡査が人民と打ちとけては拙い。買收とか贈賄とか間違ひが起り易い。津輕人と南部人の仲ならその心配がない。だから南部領では、巡査と云へば必ず津輕辯を使ふものときめてゐる。「泥棒ごつこ」の巡査も津輕辯を使ふ。しかし、南部辯には南部辯の味はひがあり、津輕辯には津輕辯の味はひがあり、相互にそれが入り混る訊問應答には、抱腹絶倒させられることがあるさうだ。
2018-04-03
■ ズーズー弁(尾崎士郎「人生劇場」青春篇「才子佳人を得たり」)
この吹岡早雄が、あるときの「文学史」の講義で、雄弁家をもって全校に鳴りひびいた口崎教授を弥次りたおしたという一条はまさに特筆大書すべきものがある。
(口崎教授は雄弁家ではあったが、ズーズー弁で、それ故、彼の言葉にしみついている東北訛のために、バアナード・ショウというべきところを常に「バアナード・ヒョウ」と発音する癖がついている)
「先生!」
(そうさけんで勢いよく立ちあがったのは吹岡早雄である)
「何かね、吹岡君!」
口崎教授がでっぷりとふとった、血色のいい顔をあげた。このとき、吹岡早雄の長い顎が例によって急速な伸縮作用を起したことはいうまでもあるまい。
「今、バアナード・ヒョウとおっしゃいましたが——?」
「うん、バアナード・ヒョウ」
「そのヒョウですね、そのヒョウというひとは一体何ものですか?」
「何ものですかって、君、——君は文科の学生で『ヒョウ』を知らんのか?」
(口崎教授の眉がピリッとうごいた)
「ハア——」
彼の顔には人を小馬鹿にしたような表情がうかんだ。
「ヒョウと言いますと?」
教授はむっつりとした顔をしてすぐにチョークをとった。黒板には、
Bernard Shaw ——
という綴文字が大きく書き出されたのである。
「ああ、わかりました、先生!」
(吹岡の顎が、またしても微妙な活動をはじめたのである)
「——ショウですね、バアナード・ショウですね?」
「そうだよ、だから、最初からバアナード・ヒョウだって言ってるじゃないか?」
「それでわかりました、ショウですね」
「ヒョウだよ、——」
(会話を此処までみちびいてゆくところに彼の話術があったと言える。そこで、教室中がどっと笑いくずれるのを見て、彼はいかにも安心したような顔をして腰をおろしたのである)