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2011-06-01

松下大三郎『改撰標準日本文法』第一編 總論 第一章 言語 第一節 言語本質及び諸相(1) 松下大三郎『改撰標準日本文法』第一編 總論 第一章 言語 第一節 言語の本質及び諸相(1) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 松下大三郎『改撰標準日本文法』第一編 總論 第一章 言語 第一節 言語の本質及び諸相(1) - 国語史資料の連関 松下大三郎『改撰標準日本文法』第一編 總論 第一章 言語 第一節 言語の本質及び諸相(1) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント


 言語聲音又は文字を記號として思念を表示する方法物である。言語には長いのも短いのもある。數十百頁の大論文も幾時間に亙る長演説言語であるが「なり」「たり」「を」「に」などの所謂る助辭言語である。

 言語聲音に依る場合は之を聲音語と云ひ、文字に依る場合は之を文字語といふ。口語でも文語でも口で言へば聲音語で字で書げは文字語である。又文字語といふのは文章のことの樣に見えるが、そうばかりは言へない。文章の一部分でも、又文章と云へない門札や看板書籍表紙の題字などの樣なものでも文字語である。

 文字語は之を讀めぱ聲音語を生ずる。しかし聲を出さずに心で讀む場合が有る。その場合は文字語のまゝである。平たく言ふ場合には文字聲音の記號であると云ふが、喧しく言へば文字は聲昔の代りではあつても必ずしも聲音の記號ではない。聲音を出さなくても直接に意義が分る。

 吾々は音を聞くと音の知覺を生ずる。その知覺が把持されたものを音の心象といふ。この心象は平素働かずに居つても、同樣の音を聞くことその他の刺戟に因つて再び喚起される。そうしてその音の心象に或る思念が結び附いてゐれば之を言語の心象といふ。吾々は心意内に思念だけ生ずる場合も有るが、鮮な思念は必ず言語の心象と共に生ずる。例へば花を觀て「花」といふ觀念が生じた時は「花」といふ言語の心象が喚起される。この喚起された言語の心象は言語の主觀的要素ではあるがまだ言語ではない。吾々は之を主觀的言語名づける。吾々は思念を他人に傳へようとしても思念そのまゝを傳へる方法は無い。以心傳心といふことは厳密な意義に於ては絶對的に出來ないことである。思念を他人に傳へる最も便利な面も稍完全な方法は思念と結び附いた聲音の心象(主觀的言語)を傳へるに在る。聲音の心象を他人に傳へるには心象のまゝでは出來ない。之を口に發して聲音となし、之に由つて目的の人の心意に在る聲音の心象を喚起し、目的の人の頭の中に我が頭の中の主觀的言語と同樣な主觀的言語を發生せしめるのが第一の方法である。又口に聲音を發する代りに文字を書いても善い。文字聲音の心象の記號てあるから、目で見て頭の中の字形の心象が喚起されゝぱ、それと結び附いた聲音の心象が直ぐ喚起される。既に聲音の心象が喚起されゝば之を聲音に發して讀むことが出來る。文字は決して聲音の記號ではない。盤音の記號ならば發音して見なけれは意味が取れない筈である。發音しなくても意味が取れるのは聲音の記號でなくて聲音の心象の記號であるからである。

 是に於て吾々は聲音語と文字語とを同一概念に統一することが出來る。曰く、聲音語と文字語とに拘らず、凡そ言語は客觀的方法を以て聲音の心象を喚起せしめ之に由つて思念を再現するものである。客觀的方法の中直接なものは聲音で間接なものは文字である。間接なものは文字の外にも有り得るが國語として用ゐられてゐるものは文字だけである。身振や顏色でも思念を表し得るがこれは聲音の心象に依らずに思念を表すのであるから言語ではない。