国語史資料の連関

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2011-01-05

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 古くは比賣《ひめ》、郎女《いらつめ》、媛《ひめ》、度賣《とめ》、刀自《とじ》などの文字を用い、子という字をつけるようになったのは奈良朝の頃からである。貞丈雑記に「女の名に子の字を付ること上代よりの事なり、日本紀欽明天皇紀に云ふ、遣2青海夫勾子1、又云ふ、春日日孤臣女曰2糠子1と見へたり、女に子の字を付る事の始なるべし」と見え、ついで平安朝時代には父兄や夫の官名をもつて呼ばれることが流行した。即ち傍廂に「すべて女のよび名は、さらぬもあれど、大かたは父か夫かの官名をよばるるが多し、小兒もしりたる百人一首の中なる女のよび名は、伊勢伊勢守繼蔭の女なり、右近は右近の少將季縄の女なり、和泉は和泉守道貞の妻なり、大貳三位は太宰大貳成章の妻なり、赤染右衛門は赤染時用の女なり、小式部内侍和泉式部の女なり、伊勢大輔伊勢祭主輔黙親の女なり、清少納言清原元輔の女なり、相模は相模守公資の妻なり、周防内侍は周防守繼伸の女なり、紀伊紀伊守重經の妹なり」と記している。また女の名におの字を冠すること、たとえば「おまさ」または「おかね」などというは太平記に「高師秋が菊亭殿《きくていどの》に在《あり》し阿才《おさい》といふ女を奪った」とあるのが史に見えた始めである。

 腹のたつ裾へかけるも女房也(明和)

 うたたねに夫思ひをすそへかけ(天明)

話の大事典 (1983年)

話の大事典 (1983年)