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2007-12-07

既然態進行態松下大三郎改撰標準日本文法』) 既然態・進行態(松下大三郎『改撰標準日本文法』) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 既然態・進行態(松下大三郎『改撰標準日本文法』) - 国語史資料の連関 既然態・進行態(松下大三郎『改撰標準日本文法』) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

     (第四編)第十節 既然態

既然態は運動性の動作動詞に属する一相であつて動作の全部又は一部の行はれた後に於ける其の動作の効果を表すものである。その全部の行はれた後をいふものを全既然又は単に既然と云ひ、一部の行はれた後をいふものを半既然又は進行態と云ふ。

 口語既然態 既然態文語にも口語にもあるが、口語に於て著しく発達して居るから先づ口語の例を挙げる。

    (一) 門札が出てゐる。    門燈が消えてゐる。

      湯が沸いて居らない。  子供が寝てゐる。

    (二) 門札が出してある。    門燈が消してある。

      湯が沸して無い。     子供が寝かしてある。

「出て居る」は「出る」という動作が全部終結した後に於ける動作の効果の存在を表す。右の例のーは皆全*1既然である。

   (中略)*2

ロ語の既然態を示す方法は「……て」の下へ右の例の(一)の様に形式動詞「居《ヰ》る」(上一段)又はその同義語「居《ヲ》る」(四段)、「いらつしやる」(四段)、御出(無活用)を附け、予備的の既然態ならば(二)の様に「ある」(ラ変)又は「ない」(ク活)、「御座る」(四段)を附ける。

   (中略)*3

右の例は全既然であるが次の様なのは半既然である。

   歩いてゐる          読んでゐる

   遊んでゐる          泣いてゐる

   遊んでいらつしやる      泣いていらつしやる

□半既然とは動作の途中を表すものをいふ。或は之を進行態ともいふ。

「ある」を附けたものは必ず全既然になるが、「ゐる」及びその同義語を附けたものは動詞の性質に由つて全既然と半既然とに分れる。

蓋し動作には瞬間性の動作と継続性の動作と二種有る。例へば

   出る  消える  知る  立つ  取る  起きる  瞬間性

   歩く  走る   読む  書く  泣く  笑ふ   継続性

瞬間性の動作は一点の如く見られるから「居る」を附けると動作が全部行はれた後を表す。これが全既然である。継続性の動作は線の如く見られるから「居る」が附くと今までの動作だけは済んだがまだ後が有ることになる。十分間の動作が五分間だけ済んで後の五分間は引き続き行はれることになる。これが半既然即ち進行態である。

「打つ」「蹴る」の様な動作は一回だけならば瞬間性であるが、反覆する場合は継続性である。又「読む」「書く」の様な動作は本来は継続性であるがその時間を考へずに単に一つの経験と思へば瞬間化される。それ故

   彼の人は本を沢山読んでゐる

など云へば全既然になる。

 文語既然態 文語既然態を表す方法は三つある。

一、口語の如く「……て」の下へ形式動詞「ゐる」「あり」及びその同義語を附ける。又「て」なしに第二活段へ附けても善い。全既然にも半既然にもある。*4

  (一)起き(て)ゐる 来(て)ゐる  鳴き(て)ゐる  歌ひ(て)ゐる

    起き(て)あり 散り(て)あり 起き(て)座す  起き(て)座《オハ》します

  口 捨て(ゝ)あり 書き(て)あり

   (中略)*5

二、「……つゝ」の下に形式動詞「あり」を用ゐて半既然を表す。

   (中略)*6

三、「……たり」「……り」の形を用ゐる。「たり」は動助辞で第二活段へ附き専ら全既然を表すが、「……り」は転活用であつて全既然にも半既然にも用ゐる

  徹るべく雨はな降りそ我妹子が形見の衣を我れ下に「着たり」 古今六帖

  月夜よし夜よしと人に告げ遣らば来《コ》てふに似たり、待たずしもあらず。古今集

  君待つと起きたる我もあるものをねまちの月は傾きにけり。古今六帖

  久方の空行く月を綱にさし我が大君はきぬ笠にせり。万葉集

  春立てば花とや見らむ、白雪の懸れる枝に鶯のなく。古今集

  我がせこに見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪のふれれば。古今六帖

  師走には泡雪ふると知らねかも梅の花さく、ふふあらずして。古今六帖

「行きたり」「為たり」は「行きてあり」「してあり」の約音で「行けり」「せり」は「行きあり」「しあり」の約音であるから、語原に溯れば此の[三]の方法も又[一]の方法に帰する。*7

金水敏いわゆる「進行態」について

*1金水引用では「全部」。

*2:右の例の(一)の様なのは単に動作の全部終了した效果を表すだけで別の意味はない。(二)の様なのは既然態ではあるが同時に其の動作が何等かの必要に對する予備である。

*3:「居る」(居る、いらっしやる、御出)と「有る」(無い、御座る)とは用法が違ふ。「居る」は所要動詞の主が形式動詞の大主と同一物である時に使ふ。「門札が出て居る」でいへば、「出て」の主も門札、形式動詞「居る」の大主も門札であって、同一である。(「居る」の小主は「出て」といふ事柄である)「有る」の方は所要動詞の主と形式動詞の大主と同一物でない時に使ふ。「門札が出してある」で云へば「出して」の主は人であるが「ある」の大主は門札であって同一物でない。

*4:「「ある」原文のまま」と金水注。

*5文語の「あり」は右の(二)の如く口語の「捨てゝある」などと同様豫備の意にも用ゐ、又右の(一)の如く口語の「ゐる」と同様にも用ゐる。
口語では「ゐる」は「花が咲いてゐる」の如く無生物にも使ふが、文語の「ゐる」は無生物には使はない。

*6:   鳴きつゝあり  歌ひつゝあり  飲みつゝあり  讀みつゝあり
これは瞬間性動作に用ゐて
   消えつゝあり  死につゝあり  起きつゝあり 立ちつゝあり
などいふと「消えむとしてあり」……の意となる。これは瞬間性の動作の半既然といふことは了解すべからざることであって「消えつゝあり」と云へば消える瞬間のみでなく消える準備をも「消える」の一部として考へるから消える準備の途中を指すことになるのである。

*7:「『たり』や既然性轉活用は既然を表すばかりでなく完了態を表すこともある。(第四〇〇頁)」で第十節終わり。