国語史資料の連関

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2007-10-31

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記憶術の伝授

米国紐育市にエロイゼッテという心理学者があって、我が明治二十年頃、新発明の記憶法を講義すると称し、二十八弗の伝授料を取って教授したのが当たったので、同年、内田周平という者が訳述した『記憶法』を初めとし、明治二十六年に無名子の『実験記憶法』、同二十七年に井上円了の『記憶術講義』、渋江保の『記憶術』、同二十八年に太田肇の『記憶術』、島田伊兵衛の『島田記憶術』、和田守菊次郎の『和田守記憶法』などいうのが続出して、記憶術ということが大流行であった。中にも和田守菊次郎という山師は、内田周平にマネて自己の新発明なりと称し、三円以上三十円の伝授料を取って人々に講義し、それが一時世間に喧伝され、朝野の名士と呼ばるる輩までが欺かれて伝授を受けたが、その頃、角田真平という者が同じくその講義を聴きに行き、ナルホド和田守の発明という記憶法は有益なものであると感心しながら、その帰りに自分の帽子を忘れて来たという一笑話もあった。

当時、予はその記憶法の流行が癪に障ったので、予は明治二十八年七月に心理学応用の『忘却法』というのを公にした。それは西哲の言いし「忘却の必要なる度は記憶の必要なる度に均し」という格言に基づいたのである。古い俗謡に「昨夜色里で、はやる争議を習った。後先ヤア覚えなんだが、中の所は忘れた。さアこそあンぺけとて、書いてもろたが、それさえ出口へ置忘て来た」とあるごとく、記憶力の強弱はその人の天性と体質や境遇にあることで、法術などの効力ははなはだ少ないものである。されば一時流行した記憶法は、結局山師どもの財布を肥やしたに過ぎずして、間もなく世間に忘れられてしまった。

その後、古書を渉猟して、明和の昔にも同じようなことがあったのを発見した。明和八年頃、京都に右の内田周平和田守菊次郎などと同じ山師学者の山本一馬、藤逸章などいうのがあって、『記憶秘法』、『物覚秘伝』というのを出し、(中略)発行した。要するにこの記憶術伝授ということも、間歇的流行の一つであった。

河出文庫isbn:4309473164