2007-10-03
■ [漢語]奇矯にわたらざる範囲に於て純粋の日本語をなるべく用ゐる事(上田萬年)
第一 奇矯にわたらざる範囲に於て純粋の日本語をなるべく用ゐる事
国民が自国の祖先伝来の言語を用ゐる事はあたり前の事で、他の国民に征伏せられたとか、或は自国の文化よりも遥に秀でた他国の文化に圧服せられるとか、してしまはぬ以上は、其の国民は容易に其の言語を変へはせぬものである。従って一度他の国民に征伏されても、其の独立を恢復する暁とか、或は自国の文化が非常に発達して、昔は優等であって圧服された程の他国の文化も、今はさほどの価値がなくなるといふ様な暁とかには、自然と自国語の自由を忍び出で、其の独立を計るやうになるものである。最も好い例は独逸語の場合で、十九世紀に於いて独逸語が仏国語の覊絆を脱し、其の独立をなし得たのは、誠に近代の文学史上著名な事実であります。これには、上は天子様をはじめ貴族社会から、下は下女馬丁などにいたるまで、皆々同情を表して助けたので、これがため数百年間独逸にはいつて、恰ど普通語同様つかはれた仏国語も、とうとう其の勢力を失ふやうになり、今では全く使はれぬやうになったものも沢山あります。勿論、此の両国語をくらべて見れば、仏国語でいふ方が簡単な場合は多いのである。しかし簡単な外国語よりも、長くてもわかりよい自国語の方を、独逸国民は善いとして選んだのである。よし一方は上品にきこえ、一方は粗野にきこえても、粗野の方に自国語の生命はある、此の方をみがきあげさへすれば、他日は見事なものになるといふ望があると自覚したからである。
われ/\も此点に於ては、全く独逸人のやうに自国語のために、漢語の覊絆を脱する覚悟をもたねばなりませぬ。しかし、なんぼ自国語がよいからと申して、世間見ずの国学者のやうに、古事記や万葉の日本語ばかりで、万事推していけると思うてはならぬ。あまりはげしい復古熱は、われ/\とても賛成せぬ。しかし、一般国民が上古以来、たとひ文学上をば放れても、猶ほ今でも使って居るやうな普通語は、なるべくこれを言葉の上にも文章の上にも用ゐるやうにしたいと思ふのである。http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=59001600&VOL_NUM=00000&KOMA=53&ITYPE=0
「国語に就きて日本国民の執るべき三大方針」(明治三十五年八月稿)
明治文學全集 44 落合直文・上田萬年・芳賀矢一・藤岡作太郎
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