国語史資料の連関

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2007-08-30

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第五講

      議論文

 議論文は、理を説くものであるから、叙事文や抒情文に比して、文藻よりも、思想が大事である。頭腦が明確で、思想がありさへすれば、議論文は出來るべき筈である。

 議論文を作るには、氣力がなくては可けない。即ち文にカがなくては可けない。たとへば、口で議論する場合にも、氣が自ら張って来て、語氣に力があるやうなものである。さればとて、妄りに肩を怒らし、聲を荒くして悪ロ雑言したり、人身攻撃をしたりすることは懐しまなくては可けない、併し苟も理のある所は、飽くまでも氣力をこめて、敵陣に突貫する如く、正正堂々の陣容を整へて、寸分の隙間騰さへ無いやうにして、進むべきである気力がなければ、筆が鈍く論が弱く、到底敵を威壓する事は出來ぬ。

 議論文は、眞理を傳へると共に、人を動かすことが必要であるから、刺撃の分子が多くなくてはならぬ。論理の立たない感情を並べ立てることはもとより不可であるけれども、人を刺撃し、人を動かさむとするには、或る程度までは、叙情の分子のあることを必要とする。冷かな理性一點張りの人では、一通り理窟は立っても、人を動かすことは出先ないものだ。但し、叙情と云っても、論理が立っての上の事で、感情に偏しては、立派な議論文は出來ない。條理井然といふ事が、議論文議論文たる所以であるのだ。

 議論文の基礎となるものは、思想である。學殖、識見、知識が十分であつてこそ、思想が豊富であり、思想が豊富であってこそ、始めて論文家たることを得べきである。淺薄陳腐な思想なら、如何に文字を美にしても、讀むに堪へない。文章は拙劣であっても、思想に取るべきものゝある方が、それよりは面白く讀めるものである。

 こゝに議論文といふのは、大體の上から云つので、議論文の中にも、叙事あり、叙情あるが如く、叙事文の中にも、議論があらうし、叙情文の中にも議論がある。又文字の上にはあらはれなくても中に含まれてゐるのもある*1。即ち一口に議論文と云ふものゝ中には、學理もあらう、叙情に近き説もあらう、批評もあらうと云ふものだ。殊に今後は批評文が必要であらうと思はれる。政治、學藝、歴史、文學、美術など、批評の範圍は頗る廣い。

 批評と云へば、他を評するやうであるけれども、實は口分自身を評するものである。英雄の事を評するにしても、英雄の資を有するものでなくては英雄、の腹の中は解らない。批詳の爲手が小人なら、その小人の見た英雄たり、又その小人の見た學者なりであって、眞の英雄、眞の學者ではない。そして議論文に限らす文章の最後は人格と云ふ事になる。人格が高ければ、議論も高く、人格が大きければ、議論も大きい。議論文は思想が土臺だけれども、思想のもとづく所は人格であるから、人絡の修養こそ、第一の要義である。

*1底本は「もあるある」