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2006-04-04

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中森晶三『能のすすめ』

玉川選書 昭和51.6.14 p13

Ⅰ能と日本語

 日本標準語の原点──謡曲  今日、一億一千万の日本人共通語を持っている。これは別に文部省の功績でも、NHKのおかげでもありません。実は徳川時代支配者であり、エリートであり、文化人であった武士たちはレッキとした共通語を持っていました。それは何かといえば、自分たちの必須の教養であった能のウタ、つまり謡曲発声発音・ヴォキャブラリーだったのです。

 これを裏付ける史料には、たとえば明治維新の時、会津に攻め込んだ薩長の百姓兵が、土地の者と話が通ぜず、思い余った中の知恵者が謡の調子でしゃべってみたら、むこうも謡の調子で答えてくれて用が足りたという話などたくさんにあります。

(中略)

 謡曲伝承  その謡曲を教える各藩の手役者(代表的立場の能役者)は、江戸の家元へ上って二十年内外の修業を義務づけられていました。江戸前の謡・家元の謡になって初めて国元で一人前に遇される。したがって、言葉の教師である能役者そのものが方言に汚染されることがなかったのです。江戸前の謡を持って帰って教えることで、武士たちはハッキリした標準語を身につけることができました。

著者は觀世流の能楽師

中森晶三『「能」が今、教えてくれること』

毎日新聞社 平成2.4.25 p21

第一章 まず、「能」のお話を── 能の話 能が果した役割

今、日本人が共通の言葉を持っていることはたいへん幸せな状態なんですが、この細長い国土に農耕民族として土着して何千年も暮らしてきた日本人が、北と南、西と東とで同じ言葉で話せるわけがありません。鹿児島からバスで一時間ほど、台風で有名な枕崎の言葉は鹿児島の人にはほとんど一句もわからないと聞きました。鹿児島弁がわれわれに難解なのも有名です。その昔、枕崎の人がもし江戸に用があれば、枕崎語と薩摩語の通訳と、薩摩語と江戸語の通訳二人を連れて歩かねばならない、文字通り「三訳を重ねて至る」という状態だったようです。それが明治以後簡単に統一できたのは、もともと日本人日常語のほかに共通語を持っていたからなんです。

 それは何か。共通語の資格があるのは、武士たちの共通の娯楽「能」のウタ、謡曲を措いてほかに考えられません。この発声発音語彙こそが共通語の母体をなしていたのです。明治維新の時、会津若松に攻め込んだ薩長の農民兵が、土地の人と取引しようとしても言葉が通じない。中の知恵者が謡の調子で話しかけてみたら、相手もそれで応えてくれて用が足りたという口碑伝説など、証拠には事欠きません。

 したがって能は、娯楽というよりむしろ豊かな声量・明瞭な発音・快い声音・共通の語彙という、支配者必須の徳目を身につけさせる教材だったのです。

中森晶三「能のすすめ」(小原哲郎編『日本語の魅力』玉川大学出版部 平成3.3.5)

 もともと日本人は、自分たちの日常語のほかに出るところに出た時に使う共通語を持っていたのです。それは何かというと、能のウタ、謡曲、謠(ママ)。この発声発音ボキャブラリー、これこそが日本語共通語の母体だったのです。昔、津軽の殿様と薩摩の殿様が、江戸城中で顔を合わせて話をする。地の言葉でやったのでは当然話が通じない。しかし能の言葉でやれば、ちゃんと通じたのです。

 明治維新の時に、会津若松維新最大の城攻めがありました。一月にもわたる戦いですから、当然食料を補給しなければなりません。薩長の兵隊が土地の農民と交渉します。当然言葉は通じません。困った中の知恵者が、試しに謠の調子でしゃべったら、向こうも謠の調子でしゃべってくれて用が足りた。つまり、いざという時は、謡曲発声発音ボキャブラリーを使えばいいと、みんな知っていたのです。

昭和63年5月30日・6月17日、玉川学園女子短大特別講話)

(『全人教育昭和63年9月号・10月号)