国語史資料の連関

国語史グループにあったブログ

2004-10-05

演説の始め(石井研堂『明治事物起原』人事部)3,4,5 演説の始め(石井研堂『明治事物起原』人事部)3,4,5 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 演説の始め(石井研堂『明治事物起原』人事部)3,4,5 - 国語史資料の連関 演説の始め(石井研堂『明治事物起原』人事部)3,4,5 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

「演説の始め(石井研堂『明治事物起原』人事部)1,2」の続き

 (三)福沢の演説 福沢全集緒言会議弁の部にいはく、「扨その翻訳に当り、第一番に、原語スピーチユに当るべき訳字を得ず、此とき不図思付きたるは、余が旧藩中津にて、藩士が身上のことにつき、願にも届にも非ざる一種の演舌書といふを呈出することあり、他藩には其例の有無を知らざれども、演舌の文字中津藩にて慥に記憶するが故に、夫れより社友と謀り、舌の字は余り俗なり、同音の説の字に改めんとて、演説の二字を得てスピーチユの原語を訳したり。其他、テベードは討論と訳し、可決否決等の文字は甚だ容易なりしが、原書中にセカンドの字を見て、之を賛成と訳することを知らずして、頗る窮したるは今に記憶する所なり。云々。夫れ是れ文字も略定りて、訳書は印刷に附し、社友相共に此新事業を研究して窃に実地に試み、或は拙宅の二階に集り、又は社友の私宅に会席を設くる等、熱心怠ることなく、明治六年より翌七年の半に至ては、聊か熟練したるが如し。明治七年六月七日、肥田昭作氏の宅にて、余が演説したるは、囗に弁ずる通りに予め書に綴り、仮りに活字印刷に附して、之を其まゝ述べんことを試みたるものにして、今日幸に其活版の遺るものあれば之を左に記す」と。一篇の演説原稿を出しおけり。

 十一年二月、『東京雑誌』第八三号に、「演説会は福沢に奪はれ、撃剣会は榊原に奪はれ、民会は千葉県に奪はれ、民訴は神奈川県に奪はれ、公園は上野に奪はれ、西洋料理は精養軒に奪はれ」とあり、福沢の演説の名高し。

  是故悪2彼佞者1 楠権の比喩  八年三月真事誌 新撰論語

  楠公を論ぜし程の舌はあれど、権助だけの義務心もなし  十二年三月 三田 螺吹

 公開演説の始め 明治八年五月一日、下谷まりし天堂内において、北辰社の馬場辰猪演説会を開き、翌九年五月より聴聞料を取ることとせり。同月の『評論新聞』第九十号に、「福地源一郎沼間守一益田克徳が、下谷マリシ天横町総大寺に於て毎月第二第四土曜日午後一時より四時迄講説せらる、已に座に着たる所、聴聞料五十銭頂戴と促されたり、これ迄三田や築地の演説会でも、只の一文取られたる事もなし、若しや間違なるかと更に聞直した所云々」、これを公開演説の始めとなす。

 同十年の夏頃、福沢氏、京橋鎗屋町講談会といふを設けたるは、まつたくの寄席に同じく、木戸を置きて聴客より席費を収めたり。これよりいまの演説会の体裁とはなれるなり。同年の冬に至り、松林伯円など、その風を学びて講談する者ありしが、これは一時のことにて直ちに止みき。その翌十一年の頃より、井生村楼の演説会始まり、加藤弘之福沢諭吉中村正直福地源一郎、江木諸遠、外山正一等の諸氏演説せり。爾来年ましに盛んになり、つひに今日の大流行とはなれるなり。

近世年代記』十一年五月の条に、「この頃より追々演説会行はる」とあり、同六月の条に、「演説会人心を煽動するを禁ず」とあり。

 政談演説 京都府下は、東京に比すれば、演説会の開催五、六年遅かりしがごとし。十三年十月二日の『朝野』に、「演説会は、何れも大流行なるに、三府の一なる京都府にては、漸く此頃に至り始り、前月廿五日寺町浄教寺に於て開会なりし処、桓武天皇遷都以来演説会の皮切りなれば……」の記事あり、もつて証すべし。

 かく年ごとに発達し来れる演説会は、国会開設請願、条約改正などの大問題起こるごとに、その活用白熱化し、従つてその話術弁法ますます研究を積み、都鄙をあげて舌鋒鋭く政府に肉薄するをつねとしたれば、政談演説と中止解散は付き物のごとき観ありし。同年八月二十九日の『有喜世』に、作州津山にて演説会を中止せられ、先日高知新聞が発行禁止されしとき、新聞の葬式を営みし例に倣ひ、演説の葬送をなし、国安院妨害中止居士の霊柩を、同所の旭川に水葬せることを記せり。

 明治二十八年版『明治乗合船』に、自由党の有志者が東京久松座において大演説会を開き、三菱会社の弊害を論じたるときの演説会の景況を話す条あり。「扨其演壇の景況は、紫地の幔幕に自由万歳と白く染めぬきたるを掛け、彼の偽党撲滅の旗は中央に翻り、紅氈打ち敷きたる高机の側に据ゑ置きし大花瓶に挿みし燕紫鵑紅の花は、諸氏が其活溌快々なる風ぼうに接するを喜ぶが如く……」と、演壇の飾り付けをつくせり。

  演説も四角張たる自由党まるくはゆかぬ三菱の論  十七年二月 紅葉亭鹿成

  世の穴もよく掘ぬきの井生村にたつるは水のひや/\の声  同上 桃の家

 銭まうけの演説 演説会が、かく発達し普及し来れるにつれ貧書生が、小遣銭を得んがために、これを興行する者あるに至れり。二十年八月版『書生肝つぶし』の、書生たがひに銭まうけを計画する条に「お互に演説会をやらかし、聴衆一人前十銭づ>取揚げるとすれば、五百人で五十円、その内席料が十五円諸費五円としても、三十円は儲る」とあり。

  猿芝居演説会といつか化け  十一年八月 頭武録

  主人の演説ヒヤ/\と居候  米丸

   演説壇(美2警部公之大功1也)  成島柳北

  演説壇、々々々、遶v壇聴衆算尽難、弁士忽奮三寸舌、敲潰監臨警部肝、此時国安何所v似、危似行灯油已乾、一声忽下中止命、国体始安2於泰山1、嗚呼忠臣警部殿、近来威勢如2雷電1、湊川楠公争如v君、莫大手柄使2人羨1、我有内願祈2天神1、曾聞天神生2斯民1、有v舌故為2国安害1、自今勿v生有v舌人、否則天降2大釘抜1、授2之各県警部達1、直不2用捨1、従2片端1、抜尽演説先生舌、幾百万舌埋2公園1、築以為v塚祭2其魂1、舌塚之高三千丈、長示明治警部尊。

   聴政談演説   十四年七月 晁斎

  幾処政談演説開、張儀蘇秦交2英才1、百千人集暫時塞、五七銭安売v符来、諷2去大鯰1板流v水、起2将眠犬1舌如v雷、呆然憐他新条例、澄v耳警官眼似v杯。門前成v市日曜日、演説主眼在2共存1、前後拍手能売博、洋漢色之洗濯論。  十二年六月 落貧農

  痩臂とまた民権を張扇叩いて饒舌る演説の|徒《むれ》  百一生

 女子演説の流行 明治十五年秋より翌年にかけて、女子演説関西方面に流行す。左の記事はその一斑なり。

「西京の岸田トシ女史(二十年)は、東洋婦女子の無気力卑屈を洗滌せんとて、遊説の途次福岡に来られ、十五年十二月八日九日の両日、午後六時より中洲劇場永楽舎に於て学術演説会を開く、聴衆雲集、九時頃に及びては、遂に木戸を破りて闖入するものあり、大修羅場を現出す。同女出でて中止を宣し、明九日の雑沓を防がん為め、切符一千枚を配るを約して事納りぬ」。

    女演説   青軒

  肩上小娘胆甚大、舌先如v火陳2利害1、文明開化実奇哉、今日牝鷄歌2国会1

    福岡てる女演説   皆水

  公開演説見2才力1、此女妙齢航2米国1、活溌精神目覚哉、有髯男子無2顏色1

 (四)三田演説館 明治八年五月一日夜、福沢氏が私資を投じて建設せる、三田演説館の開館式あり。西洋法の演説会議法を講習するを目的とせる会堂の祖なれば、特に詳記せん。このとき同会員小幡篤次郎祝辞に、「余輩、昨七年六月二十六日の夜より、欧洲に行はるゝ所のテベイチング、ソサイヱテイに傚ひ、十二、三名の社友と結び、始て弁論講習の業に従事せり、原来殆ど全周年を経て、社友増益千余名となれり……此会や、我邦建国以来、稠人群衆の前に演説するの方法を講習するの嚆矢と云ふも過言に非ず……福沢諭吉君、演説講習の業を進むるに汲々たるより、一宇の堂舎を築き、明治八年五月一日を撰み、正に此堂を開かんとす、其結構、木室瓦屋間口五間入り十間、四壁は世に云ふ海鼠壁なり、其内に入れば、中央快闊、前面に、半円形の高座を設け、講師演習の場と為し、下段に、七人を坐すべき長椅子を二行十五列に置て、社員の座所と為す、又室の両側に、高棚を架て、社外聴衆の席と定む、舎に氈あり、棚に席ありて、人員四百余名を容るべし……演説館開式に臨み、聊か以て祝詞に代ふ」。(三田演説筆記第一号)

 演説講習館の規模は、幸ひにこの祝詞に明らかなり。『演説筆記』第一号は明治八年五月、慶應義塾出版部の発行にて、演説研究雑誌の鼻祖とす、同号は、全部この館の祝文にてうづめ、その作者は、

  小幡篤次郎  朝吹英二  坪井仙太郎

  四尾純三郎  藤田茂吉 湯川頼二郎

  谷田鼎  猪飼麻二郎 森下岩楠

  中野松三郎  菅沼絃八郎 和田義郎

  小川駒橘  松山棟庵 福沢諭吉

の十五名、いづれもこの雄弁協会の会員なり。

 当の演説館は、まだ一定の命名はなかりしものと見え、各人の祝詞中に、三田演説会舎、三田演説館、三田演説会館、三田集会所等、名号数様に出づ。

 同誌福沢氏の祝詞中に、「抑も我国に於て、開闢以来、集会演説の端を開きたるものは、去年の夏、我社中の発意を以て始と為し、未だ期年にも満たざる事にて」とあり、本邦演説会の起原を確かむるに足る。明治七年十二月出版の福沢氏『学問のス丶メ』に演説(英語スピイチ)を勧むる文あり、演説会の必要を宣伝せり。

 (五)泰西弁論学の紹介

  明治十三年五月  高良二訳『泰西弁論学要訣』 一冊

  明治十四年十二月 松村 操著『演説金鍼』 一冊 等

 当時、地方官会議はすでに開け、国会開設論沸騰し、これに加ふるに、政談演説会が都鄙に盛んなりしかば、演説に関する際物出版盛んに行はる。

   演説会  関根癡堂

 快談雄弁似2(タリ)懸河1(ニ) 万衆驚(キ)聞(キ)喚(クヲ)奈何

 休(メヨ)v怪(ヲ)人身猿是(レ)祖、沐猿而冠(スル)古来多(シ)、

   米人毛氏曰(ク)猿者人之祖(ト)頗(ル)鱠2炙(ス)人口1、

   同     茶盆師

 方今国勢叫2(ビ)如何(ト)1、 任(セテ)vロ大(ニ)言半(バ)混(ズ)v螺《ホラ》(ヲ)、

 説(テ)到2(レバ)民権伸縮(ノ)処1、場中格別手(ヲ)鳴(スヤ)多(シ)、

   同     馬唐子

 席料三銭投(シテ)入(ル)v門(ニ)、 如(キ)v山(ノ)聴客寂(トシテ)無v喧、

 先生偏(ニ)学(ビ)2蘇長(ノ)弁(ヲ)1、説出(ス)西洋受売(ノ)論、

   演 説   梅柳亭顕風

 立板に水流す如演説を、聞く人もかけるひや/\の声

   同     小宮 敬忠

 思ふ事あらはしてかてに見ゆるかなまた言ひなれぬ人多くして

   同     小中村清矩

 打はやす人の諸手に心あるとき筆も名も世には響かむ

   同     井上 世外

 艶舌と手管でいつか胡麻化されあつくなる程ひや/\とよぶ

   同     かいなぶし

 開く学士の演説東京離れて地方まで国の光を増鏡議員が取持つ集会な

   同     豊 年

 行きつまる時テーブルを叩く也

近代デジタルライブラリーの明治41年版