国語史資料の連関

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2004-06-08

[]石井研堂明治事物起原』地理部「日本アルプス命名者」 石井研堂『明治事物起原』地理部「日本アルプスの命名者」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 石井研堂『明治事物起原』地理部「日本アルプスの命名者」 - 国語史資料の連関 石井研堂『明治事物起原』地理部「日本アルプスの命名者」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 日本本州の大脊梁をなす信州の高山彙を、今日日本アルプスと総称す。この日本アルプスの名は、同名の書を著はせしウエストンの命けしものとされあれども、その実はしからず。真の命け親は明治の初年大阪造幣局の御雇ひウヰリアム・ガーランド?にして、ガ氏この名称をウエ氏に薦めしなりといふ。ガ氏は、当時日本に来れるミルンといへる地震学者のために、今日いはゆるアルプス諸山を踏破し、一切の学術的材料を蒐集し、かつ命名者たる栄誉をもウエストン氏に譲り、自分はまつたく隠れたる山岳研究家として終はれる篤志家なり。

 (一)ウオルター・ウエストン? ウオルター・ウエストンといへば、すぐに『日本アルプス』の書名を連想するほどに、本邦人に親しまれし英人なり。彼はケンブリツチ大学?卒業後、明治二十二年、セント・アンドレス教会の神戸領事館付牧師として本朝に渡来せるをはじめ、前後三回、十三年にわたりて本邦に駐在し、その間二十四年より今日のいはゆる日本アルプスの探検旅行を試み、連続的に登山してその秘境を日本人に展示し、登山と山岳研究のために山岳会なる団体の結成を教示し、鳳凰山、地蔵仏の岩礁登攀を行ひて登山の新様式を実行し、欧洲の登山技術をわが国に輸入紹介せる功は偉なりといふべきなり。昭和十二年に勲四等瑞宝章を授けられ、日本山岳会は、彼の浮き彫り像を上高地花崗岩にはめ込みて、その功を伝ふ。晩年故国にその老を養ひ昭和十五年二月二十八日歿す。年七十九歳。

 (二)ウヰリアム・ガーランド? 昭和四年六月二十一日の『東朝』に、日本アルプス最初の命名者は、英人ウヰリアム・ガーランド氏に確定せるよしを報ぜり。その由来は同年一月、代議士畔田明?乗鞍岳にて遭難し、半死半生の体にて、飛騨国大野郡丹生川村沢上にたどり着きしとき、偶然同村に保存されし山の記録の中に、ウヰリアム・ガーランドなる名を発見し、さらに探究の歩を進めたる結果、一九二二年六月ロンドン発行『化学工業協会雑誌』誌上にガーランド氏が日本山岳の最初の登山者と記載されをるを発見、ここにガーランドが登場せるなりき。

 かくて、畔田氏は右の資料日本アルプスの権威者小島烏水、槙有恒?両氏に提供せる結果、ウエ氏が初めて日本アルプス登山は二十四年にして、ガ氏は五年来朝、二十一年には帰国せるもの、日本アルプスの学術的材料を蒐集し、この命名者たる栄誉をもウエ氏に譲りたること判明せり。

 ウヰリアム・ガーランドは英国シユフイールド市鉱山学校出身の鉱山技師にて、明治五年来朝、大阪造幣局に勤務し、日本貨幣最初の鋳造家として努力し、また皇室を崇敬することも厚く、後、功労によりて、勲三等旭日章を拝受し、明治二十一年頃帰英、物故せる人にて、鉱脈探査のため、信州の大桶銀山、飛騨の平金銅山等を発掘し、この頃はじめて乗鞍山その他の山々に登りて、「ジヤパニーズ・アルプス」の新称を付し、これを宣教師ウオルター・ウエストン氏に伝へ、ウエストン氏は、明治二十九年ロンドンにて『ジヤパニーズ・アルプス』の著書を公にし、続いて小島烏水氏の名著『日本アルプス』によりて、その新称が世界に普及せり。

 研堂?いはく、ガーランド氏は、明治五年来朝の造幣技師のよしなれども、同年十一月刊行『造幣寮首長年報』造幣寮に属する欧洲職員人名表中にはその名見えず。

【補】

『60年代ことばのくずかご』p99では、「ウィリアム・ゴーランド?」と表記。