国語史資料の連関

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2004-05-31

[]石井研堂明治事物起原』金融商業部「直輸入の洋書店」 石井研堂『明治事物起原』金融商業部「直輸入の洋書店」 - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 石井研堂『明治事物起原』金融商業部「直輸入の洋書店」 - 国語史資料の連関 石井研堂『明治事物起原』金融商業部「直輸入の洋書店」 - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 洋書店の丸善は、早矢仕有的といふ医者の開創なり。美濃国武儀郡笹賀村の医者早矢仕氏、二十三歳のとき笈を負うて江戸に出で、医術修業の傍ら蘭学を学び、また福沢の塾に入りて英学を学び、翻然商業をもつて身を立てんことを志せり。病家の得意先を友人桑田氏に譲りて二十両を得、これを資本に、明治元年八月横浜真砂町の些やかなる家に開業せり。東京の知り合ひの書店より、翻訳医書などを借りて店頭に並べ、傍ら薬品をも販売せり。屋号の丸屋は、福沢先生が、地球の球の字を取りて球屋がよからんと命じてくれたると、本名の有的にては商売人らしからざるがため、店の小僧の名の善八を借りて球屋善八と号せしが、球屋はマリ屋と読む人多きにぞ、さらに普通の丸の字に改め、丸善を号せしなりき。かくて、同年さらに相生町三丁目に移り、明治二年始めて東京に店舗を張るに至れり。

明治初年、我商人外品を買ふ者皆外人に倚る、氏独り郵信を以て直ちに外商に約す、人皆其胆略に驚く、店舗は最初より会社組織にて、旧時は、株主を資本社中、店員を働き社中と称し居たりしが、裡面は兎も角、表面を会社組織と露骨に言ひにくゝ、乃ち普通商店の如く丸Mの暖簾を店頭へ掲げたりし。明治十七年営業方針を改め、今日の如き営業振になし、其後会社法に基きて会社組織とせり。氏明治三十四年一月十八日病歿、生天保八年八月を距る享年六十有四、小石川金富町多福院に葬る。(碑文)