国語史資料の連関

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2004-05-23

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 (六)万国新聞紙編輯者 昭和三年二月十七日、文学博士大槻文彦氏病歿す。行年八十二。雑誌『国語と国文学』大槻博士追悼号に、同博士の自叙伝を、明治四十二年十月七日−十五日の『東京日日』より転載せり。その内に、同博士が、『万国新聞紙』の編輯にたつさはりし記事あり。

 二十歳の時、(仙台にあつて)洋学稽古人といふを命ぜられて、教師から、初は蘭学を教へられた。又此教師に、英書をも習つたが、此人は、酒ばかり飲んで居て、十分に稽古が出来ぬ。これではならぬと思つて、国を飛び出して横浜へ出て、米国人のパラ氏タムソン氏などに就きて英学をした。学資は父の厄介にならぬと極めて居たから、自分で何か稼がねばならぬ、其頃白一番館の英国宣教師べーリー氏が、『万国新聞紙』といふを、月に一回づ〉木版で発行を企てた、是れが日本の新聞紙の初めだ、其編輯員に雇はれて、編輯もし、西洋新聞紙などの覚束ない翻訳をもして居た。兎に角に、此大槻は、日本最初の新聞記者だよ。

 可笑な話をするが、其時の報酬が、一ケ月五十|分《ぶ》といふので、即十二両二分であつた。これが慶応三年のことである。其頃の十二両二分は随分値打が有つて、友人の困つて居る者を、四五人ごろ/\食客に置いた、処が、食客の方が勢が強くて、報酬の滞つた時などには、食客の方から、なんだ、まだ貰つて来ないのかなど〉、剣突を食つたもので、随分乱暴なものであつた。私は此新聞紙の編輯は、六七号でやめ、其後の編輯に、塚原周造氏や星亨氏などもはいつたと聞いた。

 予は、これを読みて非常に残念に思へり。といふは、もしこのことを、同博士の生前に知りしならば、さらに同新聞について、色々な点を質問し、当時の新聞紙発行の状況を、後日に伝へ得しものを、ことに、同博士は知らぬ中ではなし、また眼と鼻の問に住んでをりながら、一向知らざりしこととて、その好機を逸したことを、返す返すも悔やめり。

『万国新聞紙』慶応三年十月上旬発行の第七集の社告に、「翻訳に熟した人あらば予抱へん、其労に報る金は贈り、且読書も教ゆべし」と求人広告の出てをりしは、ちやうど六、七号で止めたといふ、大槻編輯員の跡代はりの募集広告なりしと思はれて滋味あり。