国語史資料の連関

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2003-03-19

[]清水卯三郎小伝(明治事物起原 第七学術) 清水卯三郎小伝(明治事物起原 第七学術) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 清水卯三郎小伝(明治事物起原 第七学術) - 国語史資料の連関 清水卯三郎小伝(明治事物起原 第七学術) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 清水卯三郎は、西洋文化の輸入者なり。文政十二年三月四日、武州羽生町に生まれ、長ずるにおよびて、寺門静軒芳川波山等について、漢学を学び、また箕作元甫について蘭学を学べり。

 安政元年、露艦の伊豆下田に来るや、幕吏筒井伊賀守に従ひて、同地に赴き、公務の傍ら、一心不乱に露語を修め、百日ばかりの滞在中に、二百五十余語を暗記したといふ。生麦事件の起こるや、通弁として英船に雇はれ、薩英媾和談判に尽力せしこと多し。慶応元年、幕命によりて、徳川民部少輔に従ひて、仏国大博覧会に赴き、諸種の学術工芸を視察し、米国を経て同三年帰朝せり。この後、おほいに悟るところありて、浅草森田町に西洋書籍店を開き、後、日本橋本町三丁目に移り、石版活版器械、陶器焼付絵の具、七宝焼原料、西洋医療器械、西洋花火等を輸入し、あるいは訳述出版の業に従ふ。また当時の諸名士に交わり、明六社に入る。ときに、西村茂樹いふ、彼は、学問には篤実なれども、商人なり。入社を許すは面白からずと。森有礼福沢諭吉両氏、学問には身分を問ふの要なしとて、極力西村氏の説を排して入社せしめしといふ。

 後年、大槻文彦高崎正風諸氏と謀りて、かなの会を起こせしは、人の皆知るところなり。明治四十三年一月二十日病で歿す、年八十二。浅草本願寺寺中乗満寺に葬る。二男一女あり。