国語史資料の連関

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2003-03-16

[]新旧書店の交代期(明治事物起原 第七学術) 新旧書店の交代期(明治事物起原 第七学術) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 新旧書店の交代期(明治事物起原 第七学術) - 国語史資料の連関 新旧書店の交代期(明治事物起原 第七学術) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 洋書店丸善創立者は、福沢諭吉と交際あり、何彼と、福沢氏に相談し、洋書店の魁をなし、つひに、今日の盛を致せりと聞く。同じ福沢氏を崇拝しながら、立派の老舗を破産させし岡嘉のごときもあり。

 芝太神宮前の岡田屋嘉七といへば、山中市兵衛などと肩をならべ、押しも押されもせぬ書店なりき。山中の方は、出版をもなせるが、岡嘉の方は、明治後には、新版を出さず、ただ古本のみを扱へり。

 明治維新後は、上下とも学風変革したれば、岡嘉の営業地は、三田の新学郷に近く、店頭に尋ね来る客は、パーレーの万国史ないしスペル、リーダーの望みばかりにて、和漢書を尋ね来る者とては少なく、岡嘉すこぶる営業上煩悶の折から、ある日先生に面接の機あり。先生より、西洋の本は、二十六字さへ学べば、うら店のかみさんも、科学書を読みて、汽車電信の真理を究むべし。漢学などは、玉篇の字数二万七千は、まだ少ない方だ、文字を覚えるだけで、一生を終はつてしまふ。で、同じ本屋を営むにも、洋書を商ふは、国家の文明を助ける機関になるが、漢籍なんか商つたのでは、ただ天下の穀つぶしを製造するに過ぎない、天下これほど割の悪い商売はないと、一席のお説教を聞かされた。

 岡嘉は、すつかり先生の説に心服し、洋書店に改革せり。明治四年頃の本には、取次所の連名中に、まだ岡嘉の名を見れども、十三年版の『東京商人録』には、もうその名を見ず。この店の見世仕舞ひの様を一見せし者の話に、「津藩の資治通鑑加賀藩の欽定四経など、山ほどの本を、荒縄でくくり、馬力で見世から運び出すところを見ましたが、私は、多年古本で飯を食つてをりましたので、アア世がらが変はつたのだ、もつたいないことだと、ひとりで泣きました」と話されしことあり。