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2003-03-13

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 精神科学に関する心理学倫理学?哲学論理学等、今日使用する新訳語?は、加藤弘之西周諸老を始め、井上哲次郎外山正一等、若手の訳語にて、普通語となれるものも多し。

 いま、井上氏の談話の要を摘みて、その一端を明らかにす。

 私初め、哲学等のことをお話しするに、其言葉が足りなくて困り、私共学生時代にさういふ術語を定める必要から、仲間を四、五人集めまして、時々集会して言葉をきめました。時の総長は加藤弘之博士で、同博士も、それは必要だとて賛成でした。

 進化論の言葉で、大事な言葉は、大分加藤博士で定りました。第一「進化」といふ言葉なども、私等は、淳化とか化淳とか案出しましたが、加藤博士の進化にきまり、「自然淘汰」「生存競争」も、加藤博士の訳語でした。

「経済学」といふ言葉も、経済雑誌などゝ、世間では既に使つてゐましたが、大学では、経済は余り広過ぎる、政治学も何も入つてゐるやうなものだから、「ポリティカル・エコノミー」の訳としてはいかぬといふて、私は、之を理財学と訳し、大学でも、初め「理財学?」としてあり、慶応大学は、今日尚之を用ひて居ります。理財は、支那の昔の言葉によつて定めたのでした。だが、世間では依然として経済と言ふてるので、たう/\それに負けて、帝大?の方も、経済学になつてしまひました。

 倫理学、これも最初は、修身学、道徳学、色々な案が出ましたが、私は、倫理は支那古典にもある言葉なので「倫理学」と訳し、それが遂に学界で一定しました。

 面白いのは「社会学」であつた*1。初めは、社会に学の字を付けるのはをかしいと云ふて、加藤博士も反対でした。それではといふて、私が「世態学」と言ひ出し、それに極つて、一時帝大の科目の中にも「世態学」があつた。所が、後になつて、「世態学」ではどうもをかしいといふて、外山正一が「社会学」と訳し、終に「世態学」は負けて「社会学」が一般の通称となつた。

哲学」は西周といふ人が、一番初めに下した訳で、帝大で用ひましたので動かず、今では、支那でも「哲学」といふ言葉を使ふやうになつた。初めは、「理学」と訳した人もあつた。

「絶対」といふ言葉は、仏経にある言葉ですが、之を「アブソリユート」に当はめたのは私でした。

「人格」といふ言葉は、比較的後でした。初め『哲学字彙』を作る頃には、まだ正確な訳語が無かつた。中島力造が、「パーソナリティー」を何と言つたらよからうと、私に言つた。この時、私の頭に、人間の品位品格といふことが頭に浮かんだので、「人格」がよからうと答へ、それを講義や著書にも使つたので、今や、日本辞書から除くことの出来ない言葉となり、法津の方でも使ふやうになつた。

言語学」といふのは、始めは、加藤博士の訳で「博言学」としてありました。言葉を沢山知つてるからといふて「スプラフヰツセンシヤフト」にはならない。どうも変へなければならぬと云ふので、一度評議会迄持出した所が、加藤博士が総長で居られる時で、加藤博士の反対でうまく通らなかつた。博士が総長をやめられてから後持ち出して、忽ちさうなつた。「スプラフヰツセンシヤフト」であるから、「言語学」の方がいいといふのだ。

エスセテイツク」を、以前は「審美学」と云つた。あれは西周ぢやない、森鴎外かも知れない、西は「美妙学」と云つてゐた。一体どの学問でも、それを審にすべきは当然で、美学に限つて審美といふは当らない。で私が、その審を削つて、只「美学」とだけしたので、ずつと広まつた。

「促進」も「暗唆」も私が使つた。英語の「アドヴアンスメント」を訳するに、適当な言葉が無いので、漢語に無いが、「促進」を当て、「サゼツシヨン」も、暗示だけでは不十分なので、唆の字を入れた。

 帝大から出した『哲学字彙』は明治十四年初版、その前(明治十一年)に、薄ツペラな奴があります。

心理学」は、西周がこしらへた。あれは、アメリカのへーヴンといふ人の『メンタル・フイロソフイー』を訳したのだ。西周といふ人は、大変巧い処があつた。あゝいふ方面の訳語は、西周が半分で、私が半分かも知れん。「功利主義」は、管仲?の『管子?』の中にある功利といふ文字を取つて、私が付けたのだ。西周は、ミルの「ユーテイリタリアニズム」を「利学」と翻訳し、陸奥宗光も、「利学正宗」なんて利学の字を使ひ、「利用論」と訳した人もあつた。

「社会」は、支那宋代の儒者が『近思録』の中に使つて居るが、狭い意味に使つてゐた。日本では、福地源一郎が、一番初め「ソサエティ」の意味で、『日々新聞』の社説に使つてあつた*2。もう一つ「会社」がある。「会社」も「ソサエティ」だが、終に「社会」を逆さにして「会社」とした。「会社」といふ言葉は、全く支那にも無かつた。

 もう一つの福地の造語に、何々主義といふ「主義」がある。若し支那に有れば、義を主とするといふので、意味が違ふ。

 「西洋」と云ふ言葉は、蘭学者翻訳した「遠西」「西域」「泰西」なんど、色々で決つて居らん。あれは、福沢の『西洋事情』から決つた。最も白石西洋といふ字を使つてゐたが、一般に使ふやうになつたのは『西洋事情』以後のことだ。

 西洋の一語だけは、あながちさうでもなささうに思ふ。天保九年版の『西洋時辰儀測定活則』、文久三年の『西洋時辰定刻便覧』、安政二年の『西洋度量考』など、時計に、西洋と称せし例は、二、三あるべし