国語史資料の連関

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2003-03-08

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 文部省にて、最初に出せる小学読本に「田中義廉編輯那珂通高校正」とありたれば、幼時これを読みたる著者は、よくその名をそらんじ、いまに忘れず。

 明治五年五月版『官員全書』海軍省の部に、「海軍中佐兼兵学中教授従六位田中義廉」あり、通称を大介といひ、博物家田中芳男の弟にて、海軍兵学校の教官なり。後文部省に転じ、読本を編輯す。その他私著に、明治二年版『道理問答』初編三冊あり、同第二編三編は、同六年版橋爪氏の著なり。八年三月二十七日の『真事誌』新撰論語に、「無(レ)v為(ル)2小人儒1……田中大輔」の一項あり、その意義を詳知せざれども、晩年『内外新報』を起こして、その社長にをさまり、麻布区会議長中、十二年九月三十日、脳病にかかり十月三日死去す。

 那珂通高は、旧盛岡藩士にて、安積艮斎について学び、梧楼の号あり。尊王攘夷の説を唱へ、奥羽諸藩連合の軍に従ひ、戦ひ利なくして、藩主は降り、梧楼は擒せられ、幽囚四年におよぶ。免されて後、大蔵文部二省に仕へ、読本校正に従ひしはこのときなり。榊原琴洲等とともに、『古事類苑』の編輯に従ひ、いまだ成らずして明治十二年五月二日歿す。年五十二。