国語史資料の連関

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2003-03-02

[]賃訳所の始め(明治事物起原 第七学術) 賃訳所の始め(明治事物起原 第七学術) - 国語史資料の連関 を含むブックマーク はてなブックマーク - 賃訳所の始め(明治事物起原 第七学術) - 国語史資料の連関 賃訳所の始め(明治事物起原 第七学術) - 国語史資料の連関 のブックマークコメント

 依頼に応じて、洋文翻訳をやるところは、明治五年秋に始まれり。『雑誌』第五九号広告に、神田雉子町三十番地翻訳所の広告あり。

  十行二十字一枚につき 英文和訳金一円、和文英訳金三分、

 この時代は、翻訳の仕事が多く、「賃訳」といふ新しい言葉さへ出来せり。なほ、翻訳界の大立て物、箕作麟祥先生の、翻訳につきては、その傘下に集まりゐたる人々の実話に、

私が箕作麟祥先生の御世話になりて居ましたのは明治五六年、先生が権大内史をして居られた比、私は翻訳局等外で、先生の配下に居り、役所がひけてから、両国のお宅に、度々書物に参りました。その時、写したのは万国史と覚えて居ります。それは賃訳で、先生が翻訳をされ、私が中清書をして、それを辻士革といふ人に廻す。辻がそれを校訂をします。処が、箕作先生は、辻の筆を入れたのを、校正とは言はせない、たゞ校字だけを許されました。それですから、本になつたものに、辻士革校とあり、校正とはありませぬ。辻といふ人は、文を直すのが中々上手でございました。先生の翻訳されたものを、私が中清書をし、辻が筆を入れたのを、先生が一応見て、それを私が浄写するといふ手順で、長い間やりました。

国史の賃訳は、十行二十字で先生の御所得が一枚二円かで、辻が二十銭を頂き、私は二銭づゝ頂きました。

其時分、翻訳局は、正院の内にありました。岩倉公の屋敷の隣りで、二重橋から馬場先門へ行く道の左側、只今原になつて居る所にありました。其頃は、翻訳局と言はなかつたかも知れませぬ。それから御廏の跡に引移りました。其の時は、確に翻訳局と云うて居ました。(池山栄明談)

箕作先生が、仏国法律を訳される時分には、辻士革といふ人が居て、筆記をしました。それは先生が前に読んで置かれて、大抵午前の仕事にして、口訳をされました。午前だけで八九枚は翻訳が出来たやうに覚えて居ります。辻といふ人は、前は、開成所の筆記方をして居て、それから文部省に来た人で、校合をするのが役でありました。原書は読めなかつた人です。(鈴木唯一談)

 辻といふは、ヘイ/\した漢学先生、妙な人でしたが、箕作先生から〈斯ういふ意味の字は〉と聞かれると〈それなら、斯ういふ字ではどうでございませう〉と言うて、字の工夫をする、それで、箕作先生が、翻訳をされると、辻が目を通すことに為つてゐました。(原田網彦談)